校長 U人先生

校長 U人先生

校長のU人先生とチャッチャ
校長のU人先生とチャッチャ

ドッグスクール・ゆうじんの校長先生。日本のアジリティーの草分け的存在。常に日本のアジリティーの未来を発信続けてきました。ドッグスクール・ゆうじんの充実した施設と豊富な道具を使って、今後もさらに、日本のアジリティーのレベル向上に努めたいと考えています。

U人先生は、名古屋の訓練所で生まれ、犬と一緒に育ちました。
通学中も、毎日のように、多くのシェパードとお散歩。
それは、1970年、名古屋から北海道に渡った後も続きました。
北海道では、札幌の里塚にいたのですが、
早々に恵庭に土地を購入し、恵庭での永住を予感していました。
U人先生は、シェパードの世界で育ちました。
毎年のように、シェパードの日本一を決める訓練ジーガー競技会にでる為に、霧ヶ峰に行きました。
1年が霧ケ峰を中心にあるような世界でした。
1980年ごろ、北海道での冬季間のトレーニング不足を解消するために、
冬の間だけ熊本に行きました。
それだけして頑張った競技会は2席でした。
1990年代に入ると、大型犬のシェパードそのものが低調になり、
愛犬家の志向が、いろんな犬種に向けられました。

マリノアのブル
マリノアのブル

私は、マリノアでフリスビーをやったり、ゴールデン・レトリーバーを救助犬に訓練したりしてました。
アジリティーを始めたのもそのころです。
1996年、私は救助犬を活動させるため、「北海道ボランティアドッグの会」を設立しました。
この会は、後年脱会しましたが、救助犬とセラピー活動の礎を築くことになりました。
同じ年、私の最初に買ったボーダーコリーのホイが、
日本代表としてスイスで行われたアジリティーの世界大会に出場することになりました。
翌年には、フリスビーで日本2位となったマリノアのブルが、ボーダーコリーのチップとともに代表となり、
デンマークで行われたアジリティーの世界大会に出場しました。

ブルとチップ デンマークにて
ブルとチップ デンマークにて

翌1998年のスロベニア大会には、チップだけで出場しました。
1999年には、今野先生のクリが代表になりました。
その年も私は、チップが代表には選ばれたのですが、選考システムに嫌気がさして辞退しました。
その後、2002年のドイツ大会には私の主力犬ブッチャが、
2006年のスイス大会には、当時5頭いた私の主力犬、マンボ・ジャム・サラ・ハル・ミニブ
からマンボ・ジャム・ハルが選考会に出場し、ハルが代表になりました。

私は、1997年から2013年の南アフリカ大会を除いて2017年のチェコ大会まで毎年、アジリティーの世界大会に行き、ビデオを撮影しました。
そのビデオは、ライブ中継の無かった頃は、貴重な存在で、
世界のアジリティーを知るうえで、日本のアジラーの役に立ったことでしょう。

撮影するU人先生
撮影するU人先生

犬のトレーニングは、画像よりもビデオの方が分かりやすいです。
しつけや訓練については、再生リストの「服従訓練」に詳しく映ってます。アジリティーのトレーニングは「その他のアジリティートレーニング」に詳しく出てきます。

2017年チェコ大会で、プレス仲間と記念撮影
2017年チェコ大会で、プレス仲間と記念撮影

世界大会はもとより、北海道の大会のアジリティーの画像もたくさん持っています。画像については、flickrをご覧ください。

ブル フリスビー ファイナル決勝1

ブル フリスビー ファイナル決勝2
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