家庭犬の訓練 1

 家庭犬の訓練 

          - 犬の取り扱いと簡単な訓練 -

   ☆☆☆ はじめに ☆☆☆

   犬を飼う

 犬を飼いはじめます。例えばラッシーの様に、例えば刑事犬カールのように賢くなって欲しい、あるいはベンジーのようにしっかりした犬になって欲しい、あるいはそれほどではなくても世間並みのシツケぐらいはと、一つの思い入れを持って飼いはじめます。不安そうにしていたのもはじめの束の間だけで、犬はあたりに慣れ貴方に尾を振りはじめます。うちとけてきたのです。人はうちとけてきた犬の相手をし、可愛がります。犬とのやりとりのはじまりです。はじめからやりとりの上手い人もいます。犬の微妙な目の表情や尾、口から犬の気持ちを読みとることが上手い人です。そういう人たちは、はじめから犬に対して大変フレンドリーです。犬は友達・仲間です。ほとんどの犬はそれを裏切りません。親しく接してくれる人には親しく答えます。こういう人は犬に答えるのも上手いですし、犬に働きかけるのもじょうずです。

 でも、ほとんどの人はそうではありません。犬に働きかけることもできませんし、犬からの働きかけにも気がつきません。しかし、犬を思う気持ちは強く、やがて犬の働きかけに気がつくようになります。今、オシッコをしたがっている、散歩に行きたがっている、撫でられたがっている、、、犬の気持ちが次第に分かってきます。これは素晴らしいことです。自分が気持ちを分かっていることを犬に伝えたくて仕方ありません。常に犬に答えます。犬はますます強く働きかけてきます。それにも答え、気持ちが通じ合えていると確信します。犬は自分の要求がすべて通ると勘違いし、人は自分ほど犬のことが分かる・犬を理解しているものはいないと勘違いしはじめます。この人達は犬からの働きかけには良く答えますが、犬への働きかけには消極的です。犬を子供のようにかわいがり、犬を庇護します。

 犬と友達のように接する人と犬を子供のように扱う人、二つのタイプがあるようです。その愛情に変わりはないと思いますが、取り扱いには微妙に差が出てきます。そしてそれに合わせて犬も変わります。友達と考える人は、もちろん犬を大切にしますが自分を主張するところは自分を主張します。常に犬の言いなりではありません。犬を子供のように考える人は、先ず子供の機嫌をとることを考えます。常に犬の主張を優先します。犬を子供のように考える人は常に犬を庇護します。犬を友達と考える人は、あらゆる状態から犬を庇護しようとは考えません。何かあれば助けようとは考えますが、それまでは犬の自由にさせます。一方で自立した心を持つ犬が出来てゆき、もう一方で人に依存する犬が出来ていきます。犬は人次第です。

   犬をしつける

 犬を飼いはじめます。例えばラッシーの様に、例えば刑事犬カールのようにあるいはそれほどではなくても一通りのシツケぐらいはと、一つの思い入れを持って飼いはじめます。シツケや犬の飼い方の本を買いこみます。悪いことをしたら叱りなさい、良いことをしたら褒めなさいと書いてあります。しかし、犬への働きかけを知らない初心者にそれが出来るでしょうか?犬を叩くことは出来ます、しかし叱ることは出来るでしょうか?犬を撫でることは出来ます、しかし褒めることは出来るでしょうか?褒めること叱ることは犬への働きかけです。この犬への働きかけが正しくできるなら、既にほとんど訓練は必要ないと言えるでしょう(→犬を訓練する)。

 犬を叱ります。ギャン!ある人の場合、犬は叱られてそれに懲りて二度と悪いことをしませんでした。別の人の場合、犬は叱られても平気で悪いことを繰り返します。叱り方が悪いとは考えません。たいていは「家の犬は叱っても平気でいる。」あるいは「家の犬は叱ってもきかない。」となるようです。また、ある人の場合、叱られて犬は一旦悪さをやめました。しかし、しばらくすると再び悪さをしでかします。その繰り返しです。犬は叱って欲しいのです。叱られることが犬には実に刺激的で楽しかったのです。もちろん、この場合も「家の犬は叱っても言うことをきかない」あるいは「家の犬は叱ったらむきになる」ということになります。

 ブレーキの効かない車があるわけではありません。止まらないように手加減してブレーキを踏んでいるのです。あるいは間違えてアクセルを踏んでいるのかも知れません。ブレーキが効くこと、すなわち犬が叱られたと感じること、すなわち一時的にせよ犬が落ち込むことに耐えられないのかもしれません。叱られていても犬がニコニコしていること・喜ぶような叱責はこの世に存在しません。

   犬を訓練する

 犬を飼うとは、どういう事でしょうか?家に忠実なしもべを一頭おくことでしょうか?もちろん、そんなつもりの人はいないでしょう。従って訓練して、犬を自分の言いなりのしもべにしようと考えるのは間違いのようです。人間社会に生きるには、たとえ犬でもルールを知らなければなりません。訓練はその為に犬に教育をつけることです、というのも違うかも知れません。人間社会に生きるといっても、ほとんどの問題は飼い主とのかかわり合いの中で発生し、もう一方の当事者をさしおいて犬に教育をつけるだけでそれは解決しないからです。もう一方の当事者すなわち人の態度が大切です。いや、犬は人の接し方によってどのようにでも変わりますから(→犬を飼う)、人の方が重要というべきかもしれません。訓練をつける、犬をしつける、犬を教育する、ほとんど一方的に問題の原因を犬に押しつけていますが、そろそろ、こういう迷信は捨てても良いのではないでしょうか?

 犬を訓練するとはどういうことでしょうか?黙っていたのでは訓練できません。犬に働きかけなければなりません。犬から望む答えを引き出さなくてはなりません。望む答えが得られたらそれを表現し、犬に答えを受け取ったことを伝えます。すると次から犬は、人の要求に更に良く答えてくれるようになります。こうして犬に人の要求を伝えます。大切なのは、人の要求を犬が知ることだけではありません。飼い主が犬に働きかけること、犬への影響力を持つこと、これが大切です。犬の答えを受け取り、受け取ったことを犬に伝えること、これも重要です。飼い主が犬に働きかけたり答えたりする事、犬を訓練するということは、同時に人にも犬の正しい扱い方をもたらします。

 ほとんどの飼い主は、はじめから犬を叱ることや褒めることは出来ません。しかし、犬につけている綱を引くことは出来ます。犬を撫でることは出来ます。犬を叩くことも出来ます。犬に言葉をかけることもできます。それが犬にどのように作用するのか、それはやってみればすぐわかります。それが犬に悲しみをもたらすのか、喜びをもたらすのかを知る事です。アクセルを踏むこと、ブレーキをかけること、ハンドルを回すこと、それが的確には出来なくても始めてみなくては運転を覚えることは出来ません。エンストを繰り返し、脱輪を繰り返し、急ブレーキ等の失敗を繰り返して、そう、たまにブレーキとアクセルを踏み間違えて加減を覚え、運転は出来るようになっていきます。

 我々プロでも、出会った様々な犬に対して常に最適な働きかけが出来るわけではありません。例えば叱るのが強すぎて犬が落ち込みすぎるようなら弱めますし、褒めても犬が明るい気分にならなければ褒め方を変えます。やって加減を知ります。犬の状態を常にフィードバックさせ、自分の態度や動きを変化させて犬を望む精神状態に持っていきます。ヨソの犬に吠えついて興奮しているときに、いつものように犬を叱ります。しかし、例えば犬の尾が背中より上にあるようなら、叱ったことにはなっていないと見ます。3回叩けばよいとか5秒撫でればよいとか、叱ることや褒めることを量では決めるわけにはいきません。犬がそう受け取らなかったら、叱ることにも褒めることにもならないのです。決められたコースに車を導くことと同じです。その時のスピード、路面、車の性能などによってハンドルの切り角やアクセル・ブレーキの加減は異なります。重要なのは、ハンドルの切り角や、アクセル・ブレーキの程度ではなく車がコースにあることです。

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