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融雪剤散布

この時期の風物詩、融雪剤散布
昨日、札幌に行ったついでに、ジョイフルによって融雪剤を買ってきました。
いつもは燻炭もみ殻なんですが、置いてなくて、今年は炭化鶏ふん
肥しにもなって一石二鳥
朝、ちょうど久しぶりにしばれて固雪になって、散布に好都合
少しでも早く溶けてほしい

炭化鶏ふん
散布直後
春を待ちきれない人々

雪下ろし!

今年はとんでもない雪!
物置の鉄骨が雪の重みで曲がってきました。
屋根に上がって手で下してたんですが、埒が空ない感じなのでユンボを入れて、おろしました。
といっても下に積もった雪が、屋根の雪を支えて、落ちてくるのを防いでいるので、それを分断。
最初に、ユンボの通り道を作るために雪をよけ、そのあとは、雪を固めて、ユンボが登れるようにして、どうにか全体にわたって除雪。
しかし、ユンボが滑って、ずり落ちたり、あるいは滑って登れなかったり、とっても大変でした。

40年前

40年前の記録です。
このところ過去の写真や日誌をデータ化しています。これもその一つ。当時私は、寒くて思ったように訓練できない北海道を飛び出して、つてを頼って熊本に行きました。これはその時の日誌です。
訓練のこと以外、何も考えてませんでした。何も考えなくても済んでた時代でした。

当時の日誌。毎日の事なので略号が入ってます。捜=追及、脚=脚側作業、三=三角:遠隔操作で犬を三角形に走らせ、途中に置かれた障害を飛ばす作業。脚停=脚側停座、方変=方向変換=遠隔作業、持=持来、監=物品監守、防=防衛作業、、、

トラックと足代わりの車
借りた農家
有田さん宅で
緑川

家庭犬の訓練 2

   ☆☆☆ 犬とは ☆☆☆

   プロとアマチュア

 野球、ゴルフ、カーレース、、、一般的にアマチュアがプロに勝つ事は容易ではないようです。しかし犬の訓練においては、しばしばプロよりアマチュアが犬を良く訓練しています。それどころか競技会では特殊な課目を除いては、なかなかプロがアマチュアに勝てないのが実状です。ところが多くの愛犬家、アマチュア訓練士が、訓練はしてみるのだけど犬が思うように言う事を聞いてくれなくて困っているのも事実です。

 何故でしょう?何故その人々はうまく訓練出来ないのでしょう?訓練の技術的な問題でしょうか?もちろんアマチュアは技術的にはプロには到底及びません。しかし下手だと訓練出来ないのでしょうか?いえいえ、プロよりいい成績を上げているアマチュアの技術は、ほとんど自分の愛犬にだけしか通用しないもので、それはもうお粗末です。どうやら、うまい下手とは別の所に犬の訓練を左右する何かがあるようですね。

 山があります。そこに向かっている限りはやく歩く人も遅い人もやがてはその山に到着出来るでしょう。しかし、いくら一生懸命人よりはやく歩いても、違う方向に向かっていたのでは何時までたっても着く事は出来ません。やっているのだけど犬が出来てこない、あるいは何もなければ良く言う事を聞くが、何かあるとさっぱり聞いてくれないという訓練は進むべき方向を間違えています。先ず正しい方向を知る事です。訓練はそこから始まります。それさえ知れば、たとえ亀のようにゆっくりでもやがてはプロを追い越す事が出来ます。アマチュアには時間はあります。

 さて時間の他にもアマチュアにはプロより優位な事があります。それは犬との信頼関係の強さです。犬と人との信頼関係、これは犬を訓練する上で、いや、犬と人とのかかわり合いにおいて非常に重要なものであり、その根底にあるものだと私は考えています。その大切な信頼関係は、子供の頃から育てられ家族同様に(家族以上に)可愛がってくれた人との間に一番強く作られ、いくら熟練した技術を持ってしてもそれに打ち勝つ事は出来ません。更にもう一つ、アマチュアはプロよりも勝るものを持つ事も出来ます。それは情熱です。訓練において情熱は、熟練したプロの技術をもってしても、とても出来ないような名犬をしばしばつくり上げています。

   犬の本質

 では訓練において進むべき正しい方向とはどこなのでしょうか?それは本来どうあるべきかという事です。例えば車、車を床の間に飾っておこうと海に浮かべようとそれは持っている人の勝手です。しかし、車は本来乗るものであり、乗ってこそ正しい使い方だというべきでしょう。犬も一緒です。犬の本来あるべき姿があります。犬をライオンのように飼おうと、ぬいぐるみのようにしようと、猫のように可愛がろうとそれは飼い主の勝手です。しかし、犬は犬として飼うべきであり、それが正しい方向だと私は思います。

 物事には色々なアプローチがあります。犬は動物だから動物の行動についての法則が適用出来るというのもありますし、また、犬は集団生活をする動物だからその集団生活の中の社会的なルールをもってコントロールをすると良いというのもあります。しかし、同じ動物であっても熊やライオンとは確実に違うところがありますし、また同じように集団生活をする馬や牛とも違うところが犬にはあります。犬には犬たるべきところがあるのです。その犬の犬たるべきところ(犬の本質)が訓練、そして犬を取り扱う上で非常に重要な意味を持つようです。

 では、犬の犬たるべきところとは何でしょうか?逆に言うと、何故犬でなければならないのか?ペットとして犬を選んだ人への問いですが、何故豚ではダメなのか、羊ではダメなのか、猫ではダメなのか、ヘビやカエルではダメなのか、何故犬でなければならないのか?その答えこそが犬の犬としての本質になります。答えは、豚や羊や猫やヘビやカエルに無いものが犬にはあるからです。それは人とやりとりが出来るという事です。これこそ犬の本質です。

   犬を犬として

 最近、動物行動学の立場から犬の問題行動ですとか、犬と人との上下関係ですとか、群の中の順位付けですとかが良くいわれるようになりました。また、日本有数のペットクラブの会報の中にさえ、犬のコントロールに条件付けという方法が当然のごとく紹介されています。もちろん犬は動物です、それは人が動物であるのと同じぐらい確かな事です。そして犬を動物として扱うそれらの方法について、私は決して効果が無いとは考えていません。おそらく人間に対して有効なほどの効果はあるだろうと考えていますし、犬の持つ動物的側面に対しては顕著な効果を示すだろうと考えています。しかし同時に、もし犬を他の動物に対するのと同じ方法でしかコントロール出来ないとしたら、既にそれは飼い方を間違えているとも考えています。犬を犬として飼うだけで犬は十分にコントロール出来るからです。そして、犬を犬として飼えなかった事から、しばしば悲劇が引き起こされているからです。

 望ましくない行動には不快感を与え条件反射的にその行動を抑える。また、して欲しい事には快楽を与える。快楽を求め不快な事は忌避する、犬は只それだけの存在なのでしょうか?犬の行動は単なる反射や反応、習性や習慣によってのみ成り立っているのでしょうか? デカルトは犬を機械仕掛けの人形のように考え、犬には意識が無いとしそれが当時から近代までの科学者の定説だったようです。犬を可愛がる事は人形を可愛がる事と同じなのでしょうか?犬の喜び、悲しみ、おびえ、怒り、それはキツネや牛や馬、あるいはカエルやヘビと同じように物事に対する只の反応なのでしょうか?人に訴え働きかけようとする心は、そこにいささかなりとも無いというのでしょうか?いやそうではないと私は思います。多くの愛犬家と同じように、私は犬から私に向かって発せられた呼びかけを確実に感じています。そこに人に対して感じるのと同じように犬の心を感じています。そして犬は友達という事に全く何の疑問も持っていません。このテキストはその犬と人とのやりとりをとおして、犬に人の要求を伝える方法を紹介しています。うるさいから声帯を取る、咬むから牙を抜く、おとなしくさせる為玉を抜く、、、これらはすべて他の方法、犬を犬として扱う事で解決します。犬に人の要求を伝えるだけで解決出来るのです。

   訓練とは何か

 室内で犬と一緒に生活されている方は実感としておわかりでしょうが、犬は様々な信号を出します。オシッコがしたい、餌が欲しい、嬉しい、恐い、もっとなでて欲しい、、、しかも、それは人に訴え掛けるものなのです。単なる自己の表現ではなくある特定の存在、そう貴方へ向かって発せられた呼びかけなのです。同時に人もそれを無視したり、答えたり、あるいは犬に要求したり、犬の心に働きかける事が出来ます。そして目の動き一つで相手に意思を伝える事さえ出来るようになります。これは確実に心と心のふれあいです。これが犬とのやりとりですが、訓練も同じです。人が犬に何かを要求します。その要求に犬が答えます。その答えに更に人が答えを返します。やりとりを重ねる事によって作り上げられていく相手の要求への理解、そして相手への思いやり。やりとりを重ねる事で心はより強くより深くふれあうようになります。

 犬を訓練するという事はどういう事でしょうか?犬を人間の忠実なしもべにする事でしょうか?人の命令に文句も言わず従うロボットにする事でしょうか?残念ながら違います。確かに良く訓練された犬はまるでロボットのように主人の指示に従い、その様は忠実なしもべが人に仕えているようです。しかし犬は、やりとりを通して人の要求を理解し、それに答えているに過ぎません。訓練はやりとりを通して人の要求を伝え、犬から望む答えを引き出します。やりとりを重ねる事によって、要求されている事は何なのかの認識を犬に作るのです。更にやりとりを重ねる事によってこの認識を強くし、犬はその認識に従って行動します。いくら反復練習をしても、条件反射的な反応の形成をはかったり、無意識的な習慣や行動を犬に求めているわけではありません。あくまでも要求に対する認識の形成を求めています。そしてそれをはずすと訓練は難しいものになってしまいます。では、訓練においてやりとりは、どのようになされるのでしょうか?

 飼い主にとって犬が自分の働きかけに答えてくれる事は感動です。ところが犬にとっても、自分の表現や行動が人に影響を与えるという事は感動なのです。そして驚くべき事に人は、まるで心の中が分かるかのように実に的確に答えてくれます。もう少し散歩していたいと思ったら、不満そうな目で見つめるだけで散歩の時間をのばしてくれます。ドックフードにうんざりしたような顔を見せれば、すぐおいしいカンズメや肉を混ぜてくれます。犬小屋で一人さびしく寝るのがイヤなら、じっと見つめるだけでご主人様と一緒に柔らかなベットで寝る事が出来ます。どうやら、やりとりを通して訓練されるのは犬だけでは無いようです。このさまは、まるで人が犬に忠実に服従しているようですが、人は単に答えを返しているに過ぎません。そこに犬に対する一切の服従心も恐らく持ち合わせてはいないでしょう。どんなに相手の要求に従っても、必ずしもそこに相手への服従心が必要とは限らないようです。

 相手が今何を望んでいるか、どんな気持ちなのか、それを知ろうとする試み、相手を思いやる気持ちが、やがて相手の要求を満たす形になっていきます。問題はどちらが相手を理解しようとするがわにまわるかです。人が犬の気持ちに答えようとすればするほど、犬にとっては良い飼い主になるでしょう。そして犬が人の要求を理解しようとしだしたら、それは名犬への第一歩です。

   訓練と芸当

 熊牧場の熊は観光客の投げるビスケット目当てにボリショイサーカス以上の芸当をひろうします。それはとても教えようと思って出来る事ではありません。何かをすればご褒美がもらえる、ご褒美目当てに動いています。褒美がすべてです。犬も一緒でしょうか?犬も動物、熊も動物です。同じ動物なら熊でそうであったように犬にとっても褒美がすべてでしょうか?私は否と答えます。犬と熊とは違います。犬にとっては褒美よりももっと大切な事があります。

 子犬を可愛がります。可愛がって可愛がって育てます。子犬にとって貴方が誰よりも好きな人、どこよりも行きたいところになります。餌を使ってもかまいません。ボールの好きな犬はボールで一緒に遊びます。他に脇目をふらないように、興味を引きそうな物には近づけません。一番行きたいところ、魅力的なところになり呼んだらすぐ来ます。そうやって育てます。一方、別の育て方をします。やはり可愛がります。しかし子犬に色々な機会を与えます。様々な物に興味を示すように育てます。ヨソの犬がとても興味深かったり、犬と遊ぶのが好きになって貴方が呼んでもなかなか来てくれません。これを訓練します。ヤードをつけて強制します。犬はどんなに好きなところにいても「コイ」の命令で来るようになります。この二例、同じように呼んだら来ます。しかし、内容は大きく異なります。一方の犬は行きたいところに行ったのです。もう一方の犬は行きたいところがあっても来たのです。要するに前者は犬がしたいようにしただけなのです。もっとしたい事があれば当然それをするでしょう。熊牧場の熊と同じです。犬も同じでしょうか?犬も単にしたい事をするだけなのでしょうか?いや、もう一方の犬は他に行きたいところがあっても貴方の元にやってきました。やりたい事をするだけでなく、犬にはもう一つその行動を左右する別の何かがあるようです。[U人1] 

   犬を叱る

 犬が何の理由なく突然人を咬むのは恐ろしい事ですが、犬にとっても人が何の理由もなく怒り出すのは恐ろしい事なのです。もちろん人は理由があって叱っているのでしょうが、それを犬に伝える事が出来なかったら叱る事は単なる暴力になってしまい、ご主人様は恐怖の対象になってしまいます。犬が理解出来るかどうか、犬に人の意図を伝える事が出来るかどうかが、叱る事と暴力とを分ける重要なポイントなのです。

 叱ると犬との関係がまずくなる、あるいは叩くと犬に嫌われると考えている愛犬家が多いようです。また、叩かないでシツケる方法も数多く紹介されています。叩かないでシツケる事が出来れば、それに越した事は無いと私も思います。また、叩いたり叱ってばかりいても犬が言う事を聞くようになるわけでもありません。しかしだからといって、叱る事を否定するのは間違っています。犬と人との信頼関係は、犬を叱ったり叩いたりしただけで崩れてしまうようなもろいものではありません。もし一度叱ったり叩いただけで逃げて行ってしまうようなら(そんな犬はいないと思いますが)それはもう犬ではありません。本来犬は、叱られたり強制されたりする事の中から人の意図を理解しようとします。犬は人を友達と考えているからです。人がそうするからには何かそこに訳があるのだと考えるのです。それが犬と人との信頼関係であり、それが出来るからこそ犬なのです。叱れる事、あるいは強制出来る事はある意味では犬への信頼の一つの現れです。

   手加減

 犬の取り扱い方に不慣れな人にとってはどれぐらい叱ったら良いのか、その手加減が難しいようです。叱る事は少なくても否定の意味にはなるべきです。もっと叱られていたい、あるいはもう一度叱られたいと犬が願う様ならそれは叱る事にはなっていません。例えば、家の犬は叱っても止めない、という事を良く聞きます。恐らくそのほとんどの場合犬は、叱られたとは受け取っていません。例えば、散歩の途中ヨソの犬に吠えつきます。これを否定やめさせたいので叱ります。「ダメよ」って言葉で呼びかけます。犬が吠えなくなればそれで十分です。しかし、意に介さず吠え続けるならこの呼びかけは叱った事にはなっていません。それは叱るつもりで手で犬のお尻を叩いても、綱で力一杯叩いても一緒です。叱った事になるのは犬が吠えつくのをやめた場合だけです。逆に言えば吠えつくのをやめるまでが叱る一つの目安です。

 極端な場合、二度とその過ちを犯そうと思わないほど犬を叱る事もあります。例えば人を咬んだとか、たびたびあっては困るような事を犬がしでかした場合です。そして、その結果犬にダメージを与えたとします。貴方を見る目が卑屈になるかも知れません。貴方を恐がるようになるかも知れません。しかし、それでも構わないと私は思います。してはならない事を犬に理解させる事が先です。犬と貴方の関係はその後で必ず修復出来ます。それ以降の犬と貴方が接している時間のすべてに、壊れた関係を修復する機会を持つ事が出来るからです。長い目で見る事です。小さい頃厳しくシツケて大人になったら優しくすれば良いのです。逆に自由気ままに育てて大人になってから、さあ言う事を聞けというのは無理です。

 慎まなければならないのは叱る回数が増える事です。それは叱る事が効果を上げてない状況を如実に物語っています。叱る事になっていないか、あるいは何を叱られているのか犬が理解出来ないのです。特に、悪い事(人が望まない事)をしでかしてから犬を追いかけ回す状況は、何時悪い事をしでかすのか度重なる経験を思い浮かべて犬の行動を予測したり、もう一つ上の次元から意図的に犬が悪い事をしでかすように状況をセットすれば解決できるはずです。後手に回らない事です。強く叱る事は悪い事ではありませんが、回数を叱ったり長く叱る事は既に叱る事にもなっていません。

 くどいようですが、叱り方の間違いが犬にダメージを与え、ひいてはそれが重要な犬への一つの働きかけを否定することにつながるので、もう一度云います。1の力で10回叩くなら、10の力で1回叩くべきです。叱ることが効果をあげれば、叱ることはダメージを犬に残しません(→ダメージ)。叱ることが効果をあげないなら、それは何かが間違っていると考えるべきです。

   力による支配

 もう一つ誤解しやすい事ですが、叱る事は上下関係を作る事ではありません。更に訓練は人と犬との上下関係をはっきりさせる事でもありません。訓練では犬に服従を求めます。しかし、その服従は上下や力での服従ではありません。先に述べたようにやりとりを通して、人に要求されてるのは何なのかという認識の上になり立つ服従です。従って犬に求めるのは服従心ではなく賢さ(判断力)です。その賢さが人の要求を理解してそれに答える:命令に従っているという形で人の目には映ります。もし、人と犬との間に著しい上下関係が生じたなら、それは訓練においてはマイナスにしかなりません。どちらがどちらに対してであっても、上下関係や力による支配という状況は速やかに解消されるべきであり、回避されるべきです。訓練では犬が自分だけの力で状況を判断する事を非常に強く求めます。与えられた機会に人の顔色をうかがったり、あるいは人に依存しなければ行動出来ない(答えを返す事が出来ない)ようでは困るのです。その判断力を養う為に教えるというよりは、犬自身が学習するという形で訓練は進められるべきです。

 例えば、伏せて待っている訓練があります。犬は人が帰って来るまで同じ場所で伏せたまま待っていなければなりません。この時、常に人が犬の側にいて犬が動き回らないように「動くなよ」「動いたら叩くよ」「じっとしてるんだよ」と働きかける事。例えば脚側行進(きゃくそくこうしん)の訓練があります、犬は人の横について一緒に歩かなければなりません。この時常に「ここよ、ここにいるのよ」「ヨソに行ったらダメよ、叩くよー」と言いながら歩いたり、あるいは犬や猫が出てきた時「行っちゃダメよー」「ダメよ、ダメよ」等と常に犬に働きかける事。この二例はいずれも犬が自分で判断する事に干渉しています。これでは何時まで経っても犬に判断が形成されません。また、犬自身が自分で物事を判断するチャンスを奪っています。犬自身の独立に問題を生じます。飼い主には、かわいい我が子に痛い目をさせたくないという気持ちがあります。それによってこのような取り扱いになりがちですが、本当は犬に失敗させ学習させるべきです。学習によって犬が得るものと、人に依存せず犬自身が学習したという経験を作る事です。犬が、もし叱られる事におびえながら行動しているとすればこれと同じ状態です。 

 アブナイ!車がきます。車が危ない事を知らない犬は平気で車に向かいます。一生懸命人は犬を抑えます。ところが訓練では犬を抑えません、行かせます。行かせて車と衝突させます。犬は懲りて二度と車に向かわなくなります、学習です。もちろん、実際にぶつけては大変なので替わりを用意しますが、犬自身の判断を作るというのはこういう事です。

   犬の命

 訓練や、犬と人とのやりとりは犬の判断力の上に成り立っています。もともと犬は人とやりとりをするにたるだけの判断力はほとんどが持っています。この判断力は、人との生活の中で様々な体験をし、色々な事を学習して発達します。しかし、犬を飼う人の中には、犬自身が学習する事を快く思わない人がいます。犬を可愛がり、何から何まで犬の面倒を見ます。どんな時でも犬は自分の庇護の下にあるべきだと考えています。犬をとりまくすべての状況は自分が完全に把握管理し、それが精神的であろうと肉体的であろうとダメージを及ぼすあらゆる可能性から犬を隔離します。世の中で犬の事を一番考えているのは自分だと思いこんでいます。自分の庇護の故に、犬がいかにストレスを受ける事無く成長したか、そしていかに何不自由無く生活しているかを自慢します。もちろん、犬の命は自分が預かっていると考え、それが本来犬のものである事には全く考えが及びません。犬に自立した心が出来るあらゆるチャンスを奪っておいて、犬は何時までも子供であり、自分で自分の面倒を見る事が出来ない子供は誰かが庇護すべきであり、その誰かは当然自分であると考えています。その人達にとって犬は、もちろん家族の一員です。そして常に子供です。訓練のやり方や取り扱いの不手際を一切考慮せず、家の子は訓練しても良くならないとか訓練には不向きとしています。あるいは逆に訓練は犬に必要ないとか、犬には良くないとか言いだしたりもします。 

 金を出して買った命でも、あるいはその生活のすべてを人が面倒見ていても、犬の命は犬のものだと私は思います。犬も一個の個性(存在)であり、それを尊重してやって欲しいと私は願います。機会を作り犬に数々の経験をさせ、犬自身が学習しその存在を高めるチャンスは与えるべきだと思います。

   犬のしあわせ

 朝昼晩、食事をしていたのに、朝と晩しか食事が無くなったら少し不幸になったと思うでしょう。でも、晩だけしか食事が与えられなかったのに朝も食べれることになったら喜びます。同じ事でも、その境遇によって受け取り方は全く違ってきます。1週間に一日だけ散歩に連れていってもらえる犬は、1週間に一回は確実に幸福な日があります。1週間に一日だけ散歩の無い日のある犬は、1週間に一日は確実に不幸です。一体どちらの犬の1週間が幸福でしょうか? 「境遇」があります。はたから見たら不幸にみえてもその境遇にあるものにとっては別になんでもないと思っていて、その不幸を意識すらしないでしょう。私は、何もかもが満たされていなくてもそれなりに幸福だと思います。あるいはひょっとしたら、1週間に一回しか散歩に連れていってもらえない犬の方が1週間に1回は幸福がある故に、1週間に1回不幸が訪れる(散歩のない日のある)犬より幸福かも知れないとさえ思います。

 ビーグルのマイケルは、若い女性がマンションで飼っていました。昼間勤めで出ていてマイケルを構ってやれない分、帰ってきてから相手をします。また、構ってやれないというマイケルに対する引け目から、マイケルの少々のワガママを、私も悪いのだからと容認しました。マイケルは毎日、出勤のたびに「行くな」と吠え続け、それでもおいて行くと部屋の中を大荒れにしました。で、帰ってきた飼い主はまた、一人にさせたせいだと可愛がります。

 ピレのパルは、おじいさんと息子が可愛がっていて、大変フレンドリーで、訓練でも非常に素直で非常に良くいうことを聞き、問題を起こすような犬にはみえませんでした。外の犬小屋で飼っていたのですが、気が向いたときに何回か部屋の中に入れて可愛がりました。パルはフレンドリーですから、人に吠えついたりはしないのですが、

近所から騒音の苦情が来ました。鳴くんです。人恋しさに、クンクン鼻を鳴らすのです。この苦情で奥さんはノイローゼになり入院しました。部屋では飼えない事情(確か子供にアレルギーが出た)があって、最後手放しました。

 ハスキーのゴンの飼い主は一月に数日しか家に帰りません。たまに帰ったときには、いないときの分までもと思いきり可愛がります。いないときは、高齢の両親が面倒を見ていますが、父は立つのがやっと、母は歩くのがやっとで、可愛いゴンのためには

大好きな煮干しを餌に混ぜてやるのが精いっぱいで、散歩どころではありません。訓練して女の子でも散歩できるようになりましたが、ゴンが家族の顔を見るとそのすべては水の泡です。父、母は散歩できませんし、飼い主はそうする(脚側につけて歩く)気がありません。

 犬を愛する誰もが、犬の幸福を願います。犬の気持ちのすべてを満たしてやりたいと願います。犬が満たされない気持ちでいるのを哀れみます。可哀想に思います。そして別の何かで埋め合わせをしようとします。それが、マイケルやパルやゴンにどういう影響を与えたかは明らかです。

 例えば、子供が転んだとき抱き起こすばかりが親の愛情ではないと思います。子供が自分で起きあがるのを黙ってみているのも愛情ではないでしょうか。例えば、子供が望むからといって何も買い与えるでしょうか?そんなことはしないでしょう。しかし、犬では愛情の名のもとに結構それが行われています。それが犬にどのような影響を与えるかは人間の子の場合と同じです。そして可哀想なの名のもとに、犬を甘やかします。一人にさせといて可愛そう。十分な散歩をさせてやれなくて可愛そう。同じものばかり食べていて可愛そう。しかし、残念ながらというか、好都合なことにというか犬は自分がおかれている境遇がどれだけ恵まれているのか、どれだけ不幸なのか分かりません。それが分かる人間の子供にさえ、その要求のすべてを満たそうとはしません。しかし、境遇さえ分からない犬には可哀想だと接するのです。境遇そのものは犬悪影響は与えませんが、可哀想だと接することは犬に非常に大きな影響を与えます。

 ビーグルのサンデーのオーナーは、可愛い女の子です。小学生ぐらい。しかし、背中が大きく湾曲し、手も足も不自由で歩くことさえままなりません。不覚にもはじめは対応に戸惑いました。しかし、ご両親が普通に接しているので私も普通に接っすることができました。感情的なものがあったとしても、その生の気持ちで相手に接することは、決して相手のためにはならないようです。どうしてこれが犬に対しては出来ないのでしょうか?

 

   名犬の条件

 犬は飼い主に似ると良く言われます。文字どおり似るわけではありませんが、犬は容器に入れられた液体のように、容器即ち飼い主に合わせて形を変えます。面白い事にほとんどの飼い主は、今ある姿がその犬本来の姿だと思いこんでいます。家の犬は良く吠える、家の犬はヨソの犬を追いかける、家の犬は落ちつきが無い、家の犬は良く言う事を聞くが散歩の時に引っ張る、家の犬は待つ事が出来ない、家の犬は呼んでも来ない、、、あたかもその犬の生まれついての特質のように言われる、これらのほとんどは飼い方です。飼い主がそうしたのです。もちろんその意図は無かったのでしょうが、そうなるようにシツケたか、あるいは逆にそうならないシツケを怠った結果です。例えば、的確に犬を扱えないハスキーの飼い主が三人集まれば、ハスキーはソリを引く犬なので散歩の時人を引っ張るのは当たり前であり、呼びの効かない習性もあるとして、あたかもそれをハスキーという犬種独自の特徴にまでしてしまいます。

 何頭犬を飼育しても、そのどの犬もお客さんが帰るまで指示された場所でじっとさせている人もいます。どの犬を車に乗せても、確かめないといるのが分からないほど大人しくしています。あの騒々しいシェルティを、何頭も飼っていても静かにさせている人もいます。訓練されて脚側(きゃくそく)について喜んで歩くハスキーはいくらでもいますし、特別訓練を受けていなくても呼んだらすぐ来るハスキーも沢山います。

 あるいはこれらにはシツケとまではいかない犬との接し方、飼い方の問題が含まれているのかも知れません。だからそれらの原因が自分にある事に気づかず、家の犬は、、、という話になるのでしょうか。例えば、散歩の途中ヨソの犬に吠え付いてるのを、綱を短く持ってダメヨダメと耳元で話しかけます。人は犬のやってる事を否定しているつもりでしょうが、反対にけしかけているようなものです。吠えるよう訓練しているのと同じです。

   犬との関係

 順位付けがいわれるようになり、それを真に受けた愛犬家が犬より優位を得ようと、いくつかの悲劇が起こりました。いじめられた犬だけでなく、理不尽な行為に逆上した犬からの反撃もその悲劇に一層拍車をかけました。一体どういう理由から、人と犬との間にある関係を無視して、犬社会のルールを人と犬との間に持ち込もうと考えたのか、私には分かりません。確かに人と犬との間に上下関係が出来る場合もあります。しかしそれを逆転しようとして犬社会のルールに従ってしまうよりも、上下の関係そのもの犬社会のルールそのものを無くして、本来の人と犬との関係を修復した方が良いと私は考えます。[U人2] 

 さて、犬はしばしば問題を起こしますが、その問題は犬と人との序列の混乱から起きるのでしょうか?向こうを向いている犬をこちらに向けただけで歯をむき出す、寝ているのを起こしたら咬んでくる、一見下位の存在にその序列を無視された事によって起きたようにみえます。「コントロール」の散歩の項目で、子供が散歩すると犬が勝手気ままに引きずり回すようになる話を紹介しました。行きたい所に抵抗無くついて来てくれるご主人様の存在は、好き勝手な犬をつくり上げます。散歩のみならず、他の事柄も自分の思い通りになると錯覚するのです。好き勝手な犬が出来上がるのは、犬の行動を制御できるだけの力の無い子供がご主人様の場合だけとは限りません。中断するのは犬の楽しみを奪って可哀想と思って、心ゆくまで臭いを嗅ぐ犬にいつまでもつきあう飼い主、気持ちを満たしてやりたいと、あっちへ行きたいこっちへ行きたいという犬のワガママに黙ってついて歩く飼い主もその大きな原因です。

 イヤがるからしない、したがるからやらせる、好き勝手、したい放題を犬に許します。当然犬は、世界は自分中心に回っていると思い込みます。飼い主は自分に従っていると考えます。その飼い主が自分の行動に干渉しようなど噸でもない話です。向きたい方を向かして置いてくれないとか、寝ていたいのに起こされて腹を立てるのは当然です。これは上下ではなく円の関係です。太陽と地球のようにどちらがどちらを中心に回っているかという事です。犬に世界の中心に自分があると勘違いさせるほど、貴方の生活は犬を中心に回っているのではないでしょうか?犬にストレスを与えてはいけない、自分が犬をいかに大切にしているか、自分がいかに犬の事を考えているか、それはもちろん悪い事ではないでしょうし、それが生き甲斐の人もいるでしょう。しかしやはり太陽は、人の方であるべきだと私は思います。

   アマチュアの失敗  

 犬にとって最も良いのは、飼い主自らが訓練することです。犬にとっては最も負担が少なく、飼い主にとっても非常に有益です。しかし、障害もいくつかあります。最も大きな障害は、犬を訓練して生計を立てている人が困ることです。冗談でなくこのテキストで、すべての人が自分で訓練出来るようになってしまったら、私は飯の食い上げです。もう一つの障害は、訓練を失敗することです。訓練できないことは問題ではありません、それで元々です。訓練を失敗するというのは、いかにも犬が言うことを聞いているようにみえて、その実飼い主が訓練されている場合をいいます。そう、良く言う事は聞くのですが、それが全部犬の都合だったり、結果言う事を聞き易いタイミングで犬に命令させられている場合です、これは実にやりにくい。ヨソ見をしているときはどうせ言う事は聞かないと思って命令しません。犬は言う事を聞きたくない時にはヨソ見をするのです。

 命令する時に犬の都合を考慮する必要は全くありませんし、してはいけません。犬がヨソを向いていようと、はしゃぎ回っていようと、犬に要求を伝える事(命令する事)には全く差し支えありません。犬が始めからあらゆる状態で、人の要求に答える事が出来るわけではありません、だから訓練するのです。犬の失敗(犬が答えることが出来ない事)を恐れる必要はありません、失敗はまたとない訓練のチャンスです。タイミングも一切考慮する必要はありません。犬が合図に対して即座に答えるのを要求する必要はありません。合図をしそれを理解して犬は行動するのです。確実な認識がないのに、動作ばかり求めても無意味です。人の要求に対する確実な認識が出来てくれば、動作は自ずとはやくなります。集中力も全く必要ありません。ボールや餌を見せて、犬にこちらに対する注意をあおります、これも無意味です。もし犬の心が飼い主になくて、犬が人の要求に気がつかなかったら、犬の心を飼い主の元に戻すまたとない訓練の機会を得ることが出来ます。良く目に付くように犬の進路をさえぎって手をかざしたり、かがみ込んで命令するのもナンセンスです。命令する際に、興奮している犬を落ちつかせて冷静にさせる必要もありません。とにかく、犬が言うことを聞き易く配慮したり、犬の都合を考慮する必要は一切ありません。

 訓練は芸当ではありません、生活の中で使います。して欲しい時にやって欲しいのです。やって欲しいその瞬間に、いちいちタイミングだとか、集中だとか、精神状態だとか、その他諸々を配慮することなど不可能です。毎日毎日、犬の都合次第の訓練をしていて、いざという時だけ人の都合で言うことを聞いてくれというのは無理です。


 [U人1] 飴とムチを使い分けると良くいわれますが、動物を調教する場合には良く餌とムチが使われます。餌は褒美と同時に食事でもあり、それに生活がかかるため動物は必死です。ムチも主として痛覚を刺激するために使われ、それを回避する動作を調教に利用します。生理や肉体的な反応に近い次元で動物の調教は行われます。要求するのはあくまでも動作(芸当)であり、動作だけです。犬の訓練のように、そこにその動作への認識を求めません。たとえ無意識でも習慣でも習性でもその動作をする事が何よりも優先されます。犬の訓練は逆に、動作にとらわれ過ぎたり、犬と人とのやりとりを外してしまうと難しいものになってしまいます。

 [U人2] 私は小さい頃は親父と一緒に、それ以降は私一人で数々の犬の群をひき連れて、ある時は名古屋のゴルフ場を、ある時は札幌の広大の造成地を、ある時は恵庭の演習場を何年もいや何十年もの間散歩しています。その犬の群は、有象無象の只の集まりだった事もありますし、確実に特定の犬・ボスがその行動の中心にいた事もあります。その際には序列もありました。しかし、それも犬同士の時の話です。そこに私が加われば私が当然ボスになり、群は私を中心に動きます。そして更にその序列に従わない特殊な犬も存在しました。常に私を中心としてどの犬よりも先に動き、私の動きに俊敏に呼応するその犬は、その犬よりいわゆる力では上位の犬達からも一目置かれました。それは良く訓練された、私との間に犬と人との関係を強く結んでいる犬です。