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家庭犬の訓練 6

   ☆☆☆ 道具 ☆☆☆

   状況を支配する

 手も足も出ない状況で犬を訓練したりはしません。犬には首輪を付け、その首輪に引き綱やヤードを付けます。それらを取り外すのは、人の働きかけに犬が確実に答えてくれるのが実感して持てるようになってからです。綱やヤードは、叱る意味で用いる場合はショックを犬に与えるように強く短く引きます。強制の意味で用いる場合はゆっくりと、そして始めは弱く次第に強さが増すように力を加えます。叱る場合は犬の心に働きかけるように、強制する場合は犬を心を持たない物を扱うように使います。

   首輪と引き綱

 訓練における最も基本的な道具です。どんな物であろうと当人が使いやすい物が一番なのでしょうが、私は手に馴染みやすい革製の物を薦めます。ただし、革製の物は簡単に咬みきる事が出来るので、長く犬を係留しておくには不向きです。首輪はストッパーが付いた引くと締まるタイプがお勧めです。繋がれている犬によく使われている、ズボンのベルトのような首輪の長さを固定するタイプの物は訓練には不向きです。

 綱で叩くと綱を嫌いになると良く聞かされます。確かに叩かれるのは犬もイヤです。その為に使われる綱に嫌悪感を持つのはさもありそうな話です。しかし、同じ綱で犬は大好きな散歩に連れて行ってもらえます。どうしましょう?綱に嫌悪感を持てば良いのでしょうか好きになれば良いのでしょうか?犬が反射と反応だけの動物ならこれは大問題です。しかし犬はそれだけの動物ではありません。痛い思いをしたのは綱があるからではなく人の意図だという事、そして更にその意図は何かを伝えようとしたものである事まで犬は理解出来ます(イラスト15)。

   スパイク首輪

 内側にトゲの付いた首輪です。小さな力でスパイクの効果を得る事が出来ます。道具は何でもそうですが、使い方です。スパイク首輪もそれを付けるだけで、犬が引っ張らないようになるわけではありません。あくまでも犬に人の要求を伝える道具でしかありません。スパイク首輪は力の無い人が用いるのに適していますし、力の無い人は用いるべきです。スパイク首輪を用いる事によって、力の不足から来るタイミングのずれをカバー出来るからです。自動車でいえばパワーステアリングにあたります。犬に強すぎるショックが加わる事を懸念する必要はありません、心配なら力を加減すれば良いのです。

   チェーンカラー

 鎖で出来た首輪、スパイク首輪ほどではないですが、普通の首輪より小さな力で大きな効果を得る事が出来ます。良くチェーンカラーをすると毛が切れるという事を聞きますが、訓練で使う限りはそういう事はありません。

   ヤード(利用するか依存するか)

 十メートル前後の紐の事です。六ミリから八ミリの径の物が使いやすいようです。紐を買って来てナス管を取り付ければ簡単に自作出来ます。ヤードは呼んでも来ない犬の矯正に良く用いられます。来る見込みが無いのに繰り返し犬を呼びます、それは人から犬に対しての働きかけのはずですが、犬はその人の呼びかけを通りがかりの車のクラクション程にも受け取っていません。このような場合はヤードを付けて、それが付いていないと手も足も出ないという状況をひっくり返します。人の呼びかけが単なる音楽ではないという事を犬に知らせるのです。逆に、ものも言わずにヤードを使う事も良くありません。ヤードに依存するとヤードが付いてないと言う事を聞かなくなってしまいます。

ヤードをつけたとたん名犬になり、隙を見せない犬もいます。この場合も知らず知らずの内に人はヤードに依存しています。ヤードが犬を束縛する結果になっています。決してヤードの有無を見破る犬が賢い訳ではありません。また、引き綱ですが付けただけで要求もしないのに犬が引っ張らないで歩く、これも正常な形ではありません。要求してない時犬は引っ張るのが本当です、それが犬の自由で自然な姿です。

   ☆☆☆ おわりに ☆☆☆

   訓練によって

 ごく普通の愛犬家の中にも、私たちと同じように事もなげに犬を取り扱う人がいます。そうかと思うと犬の取り扱いを非常に難しいものにしている人もいます。何故そうなるのか良く分かりませんが、その一因として犬のとらえ方、犬に対する考え方があると思います。例えば、良く餌を見せてスワレを教えます。餌があればやるのに餌が無いとやりません。これを犬が座る座らないは報酬のあるなしだとか、あるいは犬はやる事が分かっているのだけどやる気の問題だとか、あるいは服従心に欠けるからとか、あるいはそれは飼い主がなめられているからだとかいわれます。また、仮に犬がやっても、それは叱られるのがイヤだからしたとも良くいわれます。私はそういう受け取り方はしません。これが人なら別です。人ならやる事が分かっていても報酬を考えてしなかったり、その時の気分でずるしたり、あるいは命令した人への忠誠心から行ったり、その他諸々を考慮します。しかし犬の場合私はこういう考慮を全くしません。犬に何を要求されているかの認識がまだ出来ていないと考えます。人の要求しているのは、餌がある時には座って餌が無い時には座らなくても良いという事ではなかったはずです。[U人1] それが伝わってないと考えます。

 このテキストでは簡単な訓練、脚側行進と停座、伏座それに休止と招呼を犬に教える方法を紹介しました。犬は一通りは「アトエ」「スワレ」「フセ」の要求に答えるはずです。しかし、犬の頭の中に完全に明確に要求されている事への認識が出来ているわけではありません。ただおぼろげに分かっているに過ぎません。それを人のような完全に明確な認識にする事は出来ないと思います。しかしそれに近い形にまで認識を強化していく事は出来ます、訓練を続けるのです。「タッテ」を教えてみて下さい。脚側行進の途中で停止すると同時に「タッテ」と合図し立つ事を要求します。また、停座待機で犬から離れて向き合ったら「フセ」や「タッテ」を要求してみて下さい。あるいは伏座待機から「スワレ」や「タッテ」を要求するのです。様々なバリエーションで訓練を重ねる事です。

 家庭犬の訓練ではどの犬も二ヶ月で私の言う事を聞くようになります。私の要求には答えてくれます。しかし、家庭犬の訓練の目的は私の言う事を聞く事では無く、飼い主の言う事を聞く事です。従って今度は飼い主に訓練の練習をしてもらいます、その期間は一ヶ月から二ヶ月です。飼い主の言う事も私同様聞くようになり、それで卒業です。その時私に聞く人がいます、家へ帰っても大丈夫でしょうか、ちゃんと言う事を聞いてくれるでしょうか?残念ながら大丈夫ではありません。大丈夫かどうか飼い主自らが手応えとして分からなかったら大丈夫ではないのです。働きかけたら犬は答えてくれる、これが手応えとして感じられなければならないのです。これが心のきずな、信頼です。答えてくれてる以上犬にはその用意が出来ています。しかし、大丈夫かどうかをたずねる人の方にはまだ出来てないようですね。

 訓練で犬は変わります。繰り返されるやりとりを通して人の要求を知り、答えてくれるようになります。しかし訓練でそれ以上に大切な事は、相手が答えてくれるという確信です。相手に自分の気持ちが伝わっている実感です。これらは生活の中でも、犬とのやりとりを通して得る事が出来るかもしれません。しかし、それははなはだ気まぐれで成りゆき任せです。訓練では課題を作り人工的に状況をコントロールする事でより確実に、そして様々なバリエーションでゲームのように楽しみながらより早く、それらを得る事が出来ます。

   訓練の汎用性

 私は訓練に汎用性を求めてきました。誰にでも出来うる、どんな犬にも通用する訓練です。職人的な感や熟練した技術を必要としないで、ある程度練習しさえすれば(そう車の運転ほどの練習で)誰でもが出来る訓練です。そして、例えばボールに興味を示すとか、餌に特別いやしいとか、どの犬もが必ずしも持っているとは限らない資質ではなく、どの犬でも持ち合わせている資質を前提とした訓練です。それは例えば人への信頼です。

 元々私の訓練は犬を動かす事でした。犬自身の認識など全く考慮しませんでした。いかに迅速にいかに喜んで作業させるかが常に私の課題でした。それには極めて微妙な呼吸、タイミング、間、犬の集中力を引き出す絶妙な人の動きが要求されるのですが、ほとんど生まれた時から犬(それも訓練犬)と一緒に育った私には、ごく自然に身についていたようです。そんな私に転機が訪れたのは犬と離れていたからです。しばらくぶりに動かす犬は微妙に違っていました。思うように犬が動かないのです。感覚だけに頼ってきた私の訓練が壁にぶつかったのです。この壁を越えるには、昔の感覚を呼び戻すか、あるいはもう一度一からやり直して感覚に頼らない訓練を目指すかです。幸か不幸か、感覚は戻りませんでした。それ以来私は感覚に頼らない訓練、系統化された技術、人に伝える事が出来るものを目指してきました。それは恐らく今、ほぼ達成できたと考えています。今のアシスタントはこの仕事に就いてまだ十ヶ月、犬に対する特別鋭い神経や感覚も持ち合わせていませんし、力も私よりかなり劣ります。しかし今、十頭以上の犬をこのテキストに紹介した方法で訓練し、そのどれもが私が訓練するのと同様に喜んで問題無く服従しています。

 さて、以上で家庭犬の訓練・取り扱い方や接し方についての私の解説は終わります。目の当たりに私の訓練を見たアシスタントと違って、わかりやすくと願う程ふくれ上がってしまったこの膨大な文字の塊が、果たして貴方に私の意図するものを伝える事は出来たのでしょうか?

 平成七年三月四日脱稿   転載厳禁  柳生 昌男


 [U人1]餌が無くてもスワレは座る事を要求しているのを犬に伝えるには餌を使わない方が良い

家庭犬の訓練 5

  ☆☆☆ 待つ事を教える ☆☆☆

   停座(ていざ)

 脚側行進は出来るようになったでしょうか?脚側行進が出来るようになれば停座:スワレを教えます。犬から答えを引き出すには四つの方法があります、偶然、誘導、強制、叱責です。訓練ではこの四つの方法を使い分けて犬に人の要求を明確にしていきます。締まる首輪を犬に付け、その首輪に綱を付けて綱を上に引きあげます。この時綱が顎の下から出るようにして下さい、逆:頭の後ろから出ると犬は首が絞まってしまいます。犬の顔が上を向くはずです。顔が地面を向いているときは、両手を顎の下に添えて綱とともに引き上げて下さい。犬が飛びついたり、立ち上がる時は一旦更に上に引き上げてから少し綱をゆるめます、座ったでしょうか?これが停座です(イラスト7)。綱を弛めても座っているようなら褒めます。動くようならすかさず綱を上に引き上げます。この時の綱の方向、力加減を良く覚えて下さい。脚側で犬を停座させようとすると、綱は貴方の胸に向かって引き上げる事になるはずです(イラスト8)。

 脚側行進をしながら合図を送ります、「スワレ」とはっきり言います。合図と同時に止まらないで下さい。また、合図を送る前にも止まらないで下さい。犬への要求は先ず合図(命令)で始まります。この際、合図と同時に素早く犬が答える必要も、答えさせる必要もありません。答える速さは犬の認識が出来てくればおのずとはやくなります。また、合図以外に次に起こる事を犬に予測させるような行動は控えて下さい。犬への要求は合図だけで伝えるようにします。同じ合図はいかなる場合も同じ答えを犬に求めます。それは人や犬の都合で変わるものではありません、散歩中でも部屋の中でも、晴れていても雨が降っていても、ヨソの犬がいても猫が鳴いても、あるいは貴方が寝ていても走っていても、同じ合図は同じ答えを犬に要求します。「スワレ」はっきりと合図したら次に綱を上に引き上げ止まります(くどいようですが、あわてて綱を使う必要はありません、ゆっくりと引き上げて下さい。)。前記の要領でここで確実に座らせます(イラスト9)。

 慣れてくると犬は、綱を引き上げ始めると次に行われる事を予感して止まります。ここで歩き続ける人との間に距離が出来るはずです。この距離に慣れさせる為少し(十秒程度)間をおきます。綱を弛めて下さい。動き出すようならすかさず綱を上に引き上げ確実に座らせます。ひんぱんに動くようなら弛めないで綱を引き上げたままにして、綱が張られた状態を保ちます。脚側の位置に正確に犬が来るように犬の元に戻って下さい。脚側停座を褒めるように、安心させるように犬を褒め脚側行進を再開します。脚側行進では犬に常に人の左足のそばにいる事を要求しました、人の要求がスワレに変わった後でもそれを知らない犬は当然以前の要求を満たそうとします、そしてそれを拒まれます。今まで良いとされた行為が突然否定されるわけですから犬は不安でいます、それを解消するのです。「スワレ」の合図から繰り返します。犬との距離を広げます。犬が動くようならすかさず距離を縮め、綱を引き上げ確実に座らせます。

   ゲーム

 これは一つのゲームです。停座をさせて離れた時、犬が動くと人は綱を引き上げて確実に犬を座らせます。この動作は犬が動いた事へのペナルティーとして人に与えられた特典です。犬に隙を見せて下さい、動くようならすかさず特典をいかして下さい。犬の出来に従ってわざと隙を見せ罠を仕掛けます。引き綱一杯に離れても動かなくなったら犬の後ろを回って元に戻ります、この時も動き始めたらすかさず綱を使い確実に犬を座らせます。ここまでは綱を手から放してはいけません、いつでも使えるようにしています。引き綱一杯離れて後ろを回って戻っても動かなくなったら、犬の元に戻る途中で綱から手を放します。犬が動くようなら犬の首に近い部分の綱を掴んで引き上げます。短く綱を使う事です。引き綱一杯まで犬から離れたり、犬の後ろを回って戻ったり、手から綱を放したり、これらはすべて人が仕掛けたフェイントです。このフェイントに犬が引っかからなくなると伴に、犬の心の中では要求されている事への認識が確実に強化されています、そして更に。

 犬が動かなければ綱から手を放すポイントをだんだん早くしていきます。犬が座ったらすぐ綱を放しても構いません、そうなったら今度は犬から離れる距離を伸ばします。もう綱を持っていなくて良いのですから、好きなだけ犬から離れる事が出来ます。但し今度は、犬が動くようなら叱ります。犬の元に行き綱を両手で短く、それも出来るだけ犬に近い部分を持って、貴方の胸の方向に向かって犬にショックが加わるように強く素早く引くのです「コラッ!」「イケナイ!」(イラスト10)。例えばフセで犬が勝手に立ち上がったのを叱る場合もこれと同じ方法を用います。訓練は犬の認識の強さによって進みます、今までは叱るより強制する方が効果的でした。綱を引き上げ確実に座らせる事、この操作は強制です。しかし、ある程度要求されている事への認識が出来てきたら叱った方が効果的です。叱る事によって認識を強化するのです。この場合、動いた犬を叱るのは、待っていなかったからでは無く要求された動作・停座をしていないから叱っています。犬に要求したのは待つ事ではなくスワレです。叱ったら、はじめに座らせていた場所に強制的に戻して、強制的に座らして下さい。例えば犬が動いても、人が振り向いたとき座っていれば良いのか、というとそうではありません。位置がずれているという事は、要求された動作をしていなかったはずです、叱って元の場所でやり直しです。叱った場合は、再び犬が動いて叱る事ばかりが続かないように、それ以降は綱を持ちます。[U人1] 

   失敗を設定する

 スワレをさせて離れます。犬の元に戻って褒めてやります。座って待つ訓練です。戻って褒めようとした時犬は、思いきり走って遊びに行きました。決して叱りません。心の中はともかく顔はにこにこ笑って見送ります。もう一度やります、逃げたらダメよなんて絶対いいません。ニコニコ笑ってアマーイ顔をして、そ、まるで無防備という態度で離れます。今度は引き綱の替わりにヤードといって、十メートルほどの紐を付けました。さあ、どんどん遊びにいって頂戴(^_^)

 訓練ではこのようにわざわざ失敗を設定します、失敗しないようには配慮しません。失敗はまたと無い訓練のチャンスだからです。また、手も足も出ない状況で無駄な叱りはしません。犬に何かを教えるのは、圧倒的に人に有利な状況を作ってからです。これから叱られる事を犬に知らせる必要もありません。

 呼んでも来ない犬の矯正にもヤードが使われますし、使うべきです。が、ヤードを使えば、犬が呼んだら来るようになる訳ではありません、使い方があるようです。使い方を間違えるとヤードが付いてれば来るが、付いていないと来ないというようになってしまいます。ヤードは付いてなかったら手も足も出ない遠くの犬に対して、確実に気持ちを伝える為に用います。「コイ!」反応がなければ、思いきりヤードを引きます。来るまで何回でも使い、来たら受けとめてやります。来たら受けとめますが、迎えに行ったり捕まえたりはしません。犬が自分から(自分の力で)来るまで、ヤードを使います。それが犬の答えです、犬の答えを引き出す事とそれをうまく受けとめる事です。違いはここにあるようです。

   一動作一声符

 いかなる場合も同じ合図は同じ答えを犬に求めます。それは人や犬の都合で変わるものではありません、散歩中でも部屋の中でも、晴れていても雨が降っていても、ヨソの犬がいても猫が鳴いても、あるいは貴方が寝ていても走っていても、同じ合図は同じ答えを犬に要求します。

 一つの動作に対しては一回だけ合図を与えます。停座に対しては「スワレ」一回だけです。あたかも念を押すように、既に座っている犬に対して何回も合図を繰り返す人がたまにいます。「スワレ」「スワレ」「スワレ」。意識付けしようとしているようですが必ずしも犬が、そう都合良く人の思惑どおりになるとは限りません。ひょっとしたら犬は「スワレ」ではなく、「スワレ」「スワレ」「スワレ」と続けて三回唱えることが停座の合図だと理解するかも知れません。あるいは「スワレ」で座ったのに人はまだ別に何かしてほしいのかな、と考え始めるかも知れません。犬に人の要求を伝えるのは一回の合図で十分です。

 脚側行進の時に「スワレ」・停座を要求しました。犬は座りましたが、その時位置が脚側からずれました。これは修正する必要ありませんし、修正すべきではありません。「スワレ」の合図はあくまでも座ることだけを犬に要求しています、脚側について座ることではありません。例えば、人から離れた所にいる犬に対して「スワレ」の合図は、その場での停座を意味し、脚側までやってきての停座を要求していないのと同じです。

   伏座(ふくざ)

 停座待機が出来るようになったら伏座「フセ」を教えます。停座待機の場合の合図は「スワレ」です、「マテ」は要りません。座っている事を要求するだけで、付随的に待っているという要求は満たされるはずです。「フセ」も「フセ」だけでその位置での待機を含みます。脚側行進をしながら「フセ」と合図をします、もちろん犬は素知らぬ顔で歩き続けるはずです。両手で綱を持って力ずくで無理矢理、真下に引き下げます(イラスト11)。この場合も合図と同時に電光石火のごとく犬を伏せさせる必要はありません。台風が吹けば桶屋が儲かるのごとく、「フセ」の合図と伏せる事の因果関係がやがて犬に分かれば良いのです。どんな形でも構いません、寝転がっても構わないですから0.1秒でも犬の胸が地面に付くようにして下さい。「ヨシッ!」で解放します。それを繰り返すうちにこの0.1秒を伸ばしていきます。やはり「ヨシッ!」でダイレクトに大きく答えます。綱を弛めても伏せているようなら犬から離れます。離れたとたん立ち上がるようなら犬を叱ります。叱り方は停座の時と一緒です。綱を両手で短く持って貴方の胸の方に強く引いて下さい。良くある過ちですが、叱る事と伏せる事が一緒にならないようにして下さい。叱っている時は犬はまだ伏せてないはずです。叱ったらフセをさせ軽く優しく頭を撫でます。これは安心させる為です。停座の場合と違って早々に叱るという方法を用い始めました。これは停座を教えた事によってある程度フセの下地が出来ているからです。犬から離れる事が出来るようになったら、強制を誘導に変えます。無理矢理下に引いていた綱を軽く引き下げるだけにします。誘導で伏せなかったり中途半端な姿勢の時は叱ります。犬の元に戻ったら「アトエ」と合図して脚側停座をさせてから褒めて下さい。それまでに立ち上がったら叱って伏せさせます。

   ダブルロープ

 どうしても頑として伏せをしない、あるいはイヤがって咬んで来るような場合はダブルロープを用います。首輪を付け引き綱を付けてしっかり犬を係留し、その上で更に別の首輪と綱を犬にとりつけます。別に付けた綱を係留してある綱と反対の方に引きます(イラスト12)。犬は係留してある綱と引っ張られた綱によって極端に自由を拘束された状態になります。ワガママな犬ほどもがきます。どんなにもがいても無駄な事を犬に確認させて下さい。そのまま引き続けていると犬は息が出来ないので弛めます。犬が落ちついたら「フセ」です。強制するなり手取り足取りするなりして伏せさせて下さい。横に引き倒しても構いません。伏せた状態で良くなだめるように褒めて下さい。犬が立ち上がるのは構いません。どんな体勢でも気持ちを十分にほぐすことが大切です。「フセ」から繰り返します。拒否したり抵抗する場合は綱を引くところからやり直しです。犬が次を予感して「フセ」の合図の前に伏せたり、伏せ続けている場合は一旦犬を動かして下さい。犬は係留してある綱を半径とする円の範囲内で自由に動けるはずですから、その円の中に収まるように綱を引いたり、綱を持ったまま動いたりします。犬が自由を確認したら「フセ」です。これはやりとりを取り戻す為です。大切なのは伏せる事ではなく人に答える事です。そうで無いと、伏せを要求する度にダブルロープをしなければならなくなります。

 ダブルロープは非常に強力な強制力を持っています。良く人は、叩いて力尽くで犬をねじ伏せようとしますが、犬は興奮しますし、肉体的にもダメージを残します。ダブルロープは犬に肉体的苦痛をあまり与えません。また、肉体的ダメージもあまり残しません。しかし犬によっては非常に大きな精神的ショックを与えます。それは警戒しなくてはいけません。その精神的ショックは肉体的にも負担を与えます。人がそれに気づかずに用い続けるなら、ひどいダメージを残したり、極端な場合取り返しのつかない事態が招く恐れもあります。

 ダブルロープがその威力を発揮するのは咬み癖のある犬に対してです。犬の攻撃の圏外から犬を制御できます。特に、人に体を委ねることに抵抗を持つ犬には良く用います。ダブルロープの理想的なフィニッシュは、犬が人の手の中で安心して撫でられている状態です。体を触られるのを嫌がり

発生するかも知れません。犬に与えます。

   休止(きゅうし)

 停座が出来ている犬は、伏せを始めても比較的短い時間で犬と距離がとれるようになると思います。十歩ほど犬から離れても、戻るまで伏せたままでいられるようなら休止を開始出来ます。休止は、人が帰るまで指示された場所で犬だけで待つという訓練です。人が帰って来るのが何分後か何時間後かは分かりません。とにかく帰って来るまで犬はその場で待っていなければなりません。「フセ」で犬から離れます。数歩離れたら犬と向き合って立っています。すぐには戻りません。距離を離れる必要はありませんが、ある程度の時間(十から二十秒ほど)は待たせて下さい。犬の元に戻り「アトエ」の合図で脚側停座をさせて褒めます。途中で動くようなら叱ります。叱った後には再度犬から離れますが、離れる距離も離れている時間も短くします。犬が動いたら叱らなければなりませんが、叱る事ばかりが続かないように状況をコントロールして下さい。確実に待つ事が出来るようなら、離れる距離を十歩程度に伸ばします。更に建物の角などを利用して、犬から姿が見えないように隠れます。但し、人は犬から目を放さないで下さい。犬が動けばすぐ犬の元に行って叱り、姿は見えなくても建物の影に人がいる事を知らせます(イラスト13)。

 休止は難しい訓練ではありません。犬には非常に理解しやすい作業の一つです。しかし、時としてこの訓練を大変難しいものにしている人もいます。叱る事は、犬への一つのペナルティーです、犬にとって苦痛でなければなりません。犬がもっと叱られていたいと思ったり、もう一度叱られたいと考えてしまうなら、それはペナルティーにはなっていません。犬は休止の途中で立ち上がってみます。するとすぐご主人様が大急ぎで駆けつけて来てくれます。どうやらご主人様に会いたくなったら立ち上がれば良いようです。犬がこう考えるようになったら休止の訓練は難しいものになってしまいます。

 休止で人は、犬の比較的近くに姿を隠しています。この状態で三分程度確実に休止が出来るようになったら、罠を仕掛け要求されている事への認識を更に強化します。例えば、大好きなボールを転がしたり、おいしそうな臭いをさせたり、知らない人に呼んでもらったりするのです。罠にはまれば叱りますが、罠を仕掛ける目的は叱る事ではありません。罠を罠として犬に理解させる事です、その為には犬が罠にはまってばかりいる事が無いように、たまには易しく罠をセットする事です。

   招呼

 さあ、犬は貴方と離れて一人でいられるようになったでしょうか?何があっても、指示された場所でじっとしていなくてはならない事を犬が覚えたら、今度は人の都合の如何ではじっとしていてはならない事を教えます。脚側行進で「常に人と一緒にいろ」と要求し、停座や伏座では「離れていろ」と要求し、今度は「離れているな」と要求するのですから人は全く勝手です。引き綱の替わりにヤードを付けて脚側行進します。一定方向に歩くとヤードは伸び切るはずです、回れ右をして犬を停座させヤードの反対の端まで離れて犬と向き合って下さい。右手をまっすぐ上に上げると同時に「コイ」と言います。今まで合図は言葉だけでした、それを声符と言います。今回手による合図を用いましたがこれは視符です(イラスト14)。犬は動かないはずです。静かにヤードを取り、それを持ったままこれも静かに後ろに下がります。目立つような動きをしないで下さい。イヤでも犬は動く事になるはずです。動いてはいけないはずなのに何故動かすのか?犬は怪訝そうにしていると思います。構わず下がり続け途中からしゃがんで呼び寄せて下さい。犬には不安があります。要求されていると思っていたのと違う事をしろというのですから当然です。その不安を十分解消します。抱きかかえてヨシヨシ。繰り返します。不安が解消されたら勢い良く走って来るようになります。そして更に繰り返すと、合図の前に来ようとするはずです。犬は座ってなくても良いのだと考え始めるのです。「コイ」の合図があるまでは来てはいけないことと、はじめに要求されていた事をはっきりさせてやって下さい、座っている事です。叱って待たせた場所に戻して「スワレ」です。

   脚側への動きを得る

 「アトエ」「スワレ」「フセ」「コイ」基本的な犬の訓練は、すべて紹介しました。これらはこれまで解説した方法を用いて、練習次第で出来るようになるでしょう。しかし私は、非常に重要な犬の動きに関する訓練について、一つ省いて解説を進めてきました。しかも私は、その訓練をほとんど一番先に行っているのです。「アトエ」の合図は脚側の位置を要求します。犬がその位置にい続けるようには今まで紹介した訓練で出来ます。しかし、任意の位置から脚側の位置への犬の動きを作るには、今までの解説では不足かも知れません。

 さあ、訓練を始めます。犬は貴方の前を歩いているかも知れないし、向き合っているかも知れません、あるいは貴方にじゃれているかも知れませんし、綱を引っ張っているかも知れません。もしヨソに行きたそうにしているなら構わず行かしてやって下さい。犬を自由にすることから訓練は始まります。もちろんスパイクして、ヨソに行ってはいけないと学習させます。ここで「アトエ」で脚側を要求します。強制して下さい。十分に力を入れる事が出来るように両手で綱を持ちます。出来るだけ首に近いところ、顎の下あたりの綱を持ちます。十分に足を踏ん張って一緒に下がりながら、犬の体を自分より後ろまで引き下げます。左、脚側のがわに引き下げて下さい。丁度脚側ではなく少し余計目に引き下げるのがコツです。強制の常で犬を物のように扱うことです。ほとんどの犬は抵抗して踏ん張るはずですが構わずやって下さい。自分より後ろに行ったら優しく呼んで下さい。脚側の位置を示して、ここだよココ。脚側の位置で安心させるように十分にほぐします。強制が効いて来て、犬が自分で動こうとし出したら一緒に下がるだけにして、強制から誘導に切り換えます。

   ピークを制する

 さて、ここまで来ると脚側行進もかなり落ちついてきたと思います。一つの形では確実に制御出来ているでしょう、そう、綱をつけて歩く分にはです。更に進めます、軽く走って下さい。犬は興奮します。じゃれついたり、前に出ようとしたり。急に止まって下さい。犬が要求されていることを忘れて、自分だけ走り続けるようならスパイクです。そうでなければ、あわてて脚側に戻って来ようとするはずです、この動きは助けます。その動きが途切れないようにスムースに脚側に誘導し褒めて、脚側につこうとする犬の気持ちに答えます。もし犬が行きすぎないで人と一緒に止まれたら理想的です。人が走り出したとき、犬は興奮し人と一緒かあるいは人の少し前に位置するのが本当です。犬が走るのを喜ばなかったり遅れるのは、訓練が犬を拘束しているか、あるいは犬に何らかの障害が起きているのかも知れません。

 今までは安心させる答え方でした、犬を受けとめていました。より積極的に犬に答えを返します。満々と水を湛えた堰を切るように、気持ちを解放します。犬の喜びをピークに持っていきます。例えば、仕事から帰ってきた貴方を迎える犬の喜びを想定して下さい。あるいは食事をもらえる喜びかも知れませんし、散歩に行く時のはちきれんばかりの喜びでも良いです。その喜びを犬に求めるのです。貴方がじっとしていては難しいでしょう。大抵はオーバーに表現しながら、犬から離れるように下がることでそれが得られると思います。犬の喜びがピークに達したところで「アトエ」の合図をして下さい。犬が喜びのあまり要求が理解できないようなら強制して下さい。少しでも答えがあるなら、誘導して助けます。興奮から冷静へ、動から静へ、急激な転換、切り換えが大切です。喜ぶときには喜んで、しかし命令には確実に答える事です。いかなる場合でも、命令して良いし、犬は当然のごとくそれには答えなければなりません。

 喜びのピークを作り、そのピークの瞬間に命令して答えを得る、即ちピークを制することには、大きな意味が三つはあります。先ず、興奮状態での犬のコントロールを得る事です。このピークの時の興奮状態までは、ヨソの犬に対しても、猫を見て興奮してもコントロールできるという事です。もう一つは動きを作る事です。ピークの瞬間に次の命令を出す事は、エネルギーに満ちた状態で次の動作を要求しています。そのエネルギーのすべてが次の動作に流れます。犬は、見せたこともないほど喜んで次の動作をします。若干の誘導は問題になりません、高い興奮状態を保つ事が優先します、というよりいかにそのピークの状態を保ったまま要求する動作を引き出せるかです。これが、いわゆる犬を動かす技術です。

 最後にやはり手応えです。犬を走らせる、犬を興奮させる、そしてその状態での制御は確実に人に手応え、犬は答えてくれるという実感を作ります。ここまで来れば、つけている引き綱はほとんどその意味を失います。ピークを制する事で、今までの、より冷静にと抑える方向ばかりの犬の取り扱いが反対になります。より興奮させるのです、より強い答えが得られます。


 [U人1]褒め方は今までは不安を解消する為に安心させる事が中心でした、犬を受けとめていました。それをより積極的に犬に答えを返す褒め方にします。犬の元に戻ったら、満々と水を湛えた堰を切るように、気持ちを解放して下さい。犬が動きだすほど強く大きく「良くやった!」と表現します。

家庭犬の訓練 4

   ☆☆☆ 歩く事を教える ☆☆☆ 

   何を要求するか

 犬に要求を伝える上で大切な事は、どうやって伝えるかよりも何を伝えるかです。人はしばしば気持ちの整理がつかないまま犬に要求します、それは漠然としたものです。しかし、本人にさえはっきりしない事を犬に伝える事は無理というものです。例えば横で見ている貴方の奥さんが、貴方が犬に何を要求しているのか分からないようでは、当の犬はもっと理解しづらいと思って下さい。まず、何を要求すべきかをはっきりするのです。

 人と歩調を合わせて歩く、犬や人や猫が出て来ても突っ走らない、ゆっくり歩く、むちゃくちゃ引っ張らないで歩く、好き勝手に動き回らないで欲しい、、、以上のすべての要求を満たして人の横について歩く事を訓練では脚側行進といいます。人の都合で色々な要求が出てきましたが、それらを一度に犬に伝える事は無理です。ある一つの要求を犬に伝える事で、付随的に他の要求は満たされます。脚側行進で犬に要求するのはある特定の位置です。その位置がどこかを犬に伝えます。その位置は人の左足のそばです(イラスト2)。

 脚側行進は位置を要求します。止まっても、歩いても、走っても常に人の左足にいる事を要求します。だからといって始めから、歩いたり走ったりしながら教える必要はありません。始めは止まった状態で教えます。位置を教えるには、そこになじませる事です。始めは手とり足とり補助してやり、正しい位置を維持出来るように助けます。補助を弱めても、正しい位置にいる事が出来るようならほめます。犬が安心している事に注意を払って褒めて下さい。喜ばす事より安心させる事が重要です。脚側の場所が一番安心出来る場所だと教えるのです。脚側の位置にい続ける事、あるいは脚側の位置で待っている事(動かない事)を教えるようなものです。自分のすぐ左での事ですから、そう難しくはないでしょう。動き始めをつぶす事がコツでしょうか。

   核心

 何の助けをしなくても、犬が正しい位置に落ちついていられるようなら歩きます、先ず一歩です。「アトエ」と合図しながらではなく、「アトエ」と合図をしておいて左足から大股で一歩だけ歩いて下さい。貴方の教え方が上手いと犬は動きません。元の位置で座っているはずです。犬は貴方の要求を脚側にいる事だと都合良くは理解しません。大抵は動いてはダメなんだと理解します。「なにやってんだ!」と叱らないで下さい、それでいいのです。呼んで下さい、「ココダヨ!」親切に分かりやすく、場所を指示してやって下さい。じっとしているのは同じ場所ではなく、ココ、私の足の横よと示します。呼べばすぐ脚側の位置に来て何もいわなくても座る、指示しなくても自分から座るようなれば、脚側行進は出来たようなものです。この一歩を得る事、これが脚側行進の核心です。この一歩は次の一万歩に匹敵します。この一歩を得るのに我々ベテランでも時間がかかります、逆に言うとこの部分には時間をみて下さい。

   仕上げ

 一歩は得られましたでしょうか?ではもう少しです、これで脚側行進は出来上がります、仕上げです。「アトエ」合図して、犬を呼びながら歩き始めます。今度は大股ではありません、ゆっくりと小股です。犬は座ろう座ろうとします、理想的です。脚側の位置を常に示しながら、ココダヨ!ココ、親切に呼んで下さい。座ろうとするタイミングに合わせて止まります。深い渓谷にかかる釣り橋を渡りきった時のように褒めて下さい。「ヨク出来たネ!」歩く距離は初めは、三,四歩から五,六歩です、座ろう座ろうとする犬の気持ちが大切です。この気持ちを残しながら距離を伸ばして下さい。逆に言うと、この気持ちがあるうちはどんどん距離を伸ばします、大胆に!この気持ちがポイントです。止まった時にスムースに座るかどうかです。抵抗したり流れが止まるようなら、もう一度一歩からやり直しです。以上で出来上がりです。私は「歩けるようになった」と表現します。お宅の犬も歩けるようになりましたか?

   歩きながら

 教え方にはいくつもの方法があります。何を要求するのか、という事さえはずさなければ、出来上がりに大きな違いはありません。脚側行進は、もう一つ方法を紹介しておきます。この方法のほうが犬に対するプレッシャーは少ないと思います。従って幼犬や、プレッシャーに弱い犬には向くかと思います。しかし、技術的には少しむずかしいかも知れません。いずれにしろ訓練になる方法を選択して下さい。犬によっては、一歩一歩止まらされて脚側を要求されることに束縛を感じるのもいます。そんな犬には、動きながら脚側を要求するこの方法の方が訓練になると思います。

 強制を用います。綱の引き方がポイントです。力の入れ方で強制が強制にならず、結果が逆になることもありますので、それを詳しく説明します。スパイクはショックを犬に与えます。それが目的です。綱は急激に短く強く引きます。もし綱が切れやすい物で出来ているとしたら、切れてしまうことでしょう。さてその切れやすい綱を切れないように、しかしスパイクと同じほどの力が作用するように引きます。それには時間を掛けて徐々に力を強めるように引くことです。強制はそのように綱を引きます。スパイクは綱を一旦弛めるか、弛めた状態から行いますが、強制の場合は先ず綱を軽く張ってから力を加えていきます。

 さて、綱の先に物をくくりつけてそれを動かすことを考えてみて下さい。座布団などくくりつけて、実際にやってみても結構です。力強く引っ張って惰性で自分の足もとまで引き寄せて下さい。綱は一杯に長くしたまま使わなければなりません。手繰り寄せるのではなく、強く引っ張ってあとは惰性にまかせて足もとまで寄せます。この座布団が犬になります。「アトエ」合図と同時に犬を引っ張ります。引いたら再び犬から離れます。引き綱の長さ一杯まで離れたら「アトエ」、再び引っ張ります。犬がついてきて(☆ポイント)離れられないようなら場所を示します。方法が違っても犬に要求することは同じです。位置です。よーく位置を示し呼び寄せて褒めます。強制のポイントは犬を物のように扱うことです。座布団のように引っ張りましたが、犬の答えを引き出したこの後は座布団から生きた犬に戻し、あたかも座布団の事は無かったように犬が答えたことだけを取り上げて褒めるのです。「アトエ」で歩き始めます。引き綱一杯に犬から離れることが出来るチャンスがあれば、遠慮無く離れて強制してください。強制で犬を引くときは必ず左手に犬がいるように、犬に対して半身になって下さい。従って、任意の方向に引き綱一杯に離れたら、その向きで犬と対処する事になるように先ず体を回転させます。

 ☆この方法のポイントはここです。座布団のように引っ張ろうとした時に犬の方から寄ってきた時です。「何をなさるのですかご主人様、私は座布団ではありませんよ。何でも言って下さい、しますから。」犬の方からこう言ってきたのです。そこでそれを受けて、「ここだよ、ここ。ここに来なさい。」と親切に場所を示すのです。多少は人の方から犬ににじり寄っても脚側の状態を早く作って褒めた方が良いようです。犬が答えてくれたことを大切にするのです。こういう対応は強制では大切です。犬は物のように扱われたことに猛然と反発します。人に答えたいという気持ちが強い犬ほどそれは強いでしょう。これを更に追い込むことはマイナスにしかなりません。まず、人に答えたい、その気持ちを受けとめてやることです。この気持ちは後でどんな形にでも加工できます。

 もちろん犬は、強制するからこういう態度にでたのです。反対に人の方から「ネ、お願い!ここに来てちょうだい!」と呼びかけたのでは「ヤーーダモン!」とそっぽを向くのが常です。迎えにいけば離れるし、離れればついてきて、頼み込むと足元を見ます。

   ☆☆☆ コントロール ☆☆☆

   集中力

 訓練競技会というのがあります。例えば、犬の服従性の良さなどを競ったりします。これは日常の犬の態度を細かく検査して服従性を判断するものではなく、競技会場で規定にそった作業をさせて服従性を審(み)ます。日常どんなに良く服従していても、競技の時にしなかったらダメです。逆に日常服従しなくても、審査の時さえうまくやれば名犬です。競技は短い時間です、その時出来るだけ指導手に集中させた方がうまくゆきます。日常以上の集中を犬に求め、それに効果的なのがボールを使う事です。ひどい指導手になるとボールをポケット入れたままやっています。という事でボールを使う事がはやりだしました。中にはボールを使う事が訓練だと思っている訓練士もいます。ボールを使わないと訓練出来ない人もいます。ボールに興味がない犬は訓練出来ません。そこでボールの替わりにエサの登場です。さて、以上のように競技では集中力は必要です。しかし日常の生活の中で、そこまでの集中は必要でしょうか?例えば訓練という事を全く抜きにして、散歩の時犬が主人を見て尾を振ります。散歩の時間だと喜びます。自然な気持ちであり自然な精神状態です。この自然な精神状態のまま身体だけ人の脚側にある事、あるいは命令を聞く事、これではダメでしょうか?犬が命令を聞く際には、どうしても普段以上の集中をしなければならないのでしょうか?

 健康な人間がテンポ良く、犬のほめへの期待感を損なわないように(例えばボールなどをちらつかせながら)そう会社へ急ぐ通勤者よりはやく歩いて犬を自分に集中させます。そして犬はその集中に乗せられて人の一挙一動に敏感に答えます。通常、喜求的(ききゅうてき)と表現されますが、私はこれを犬を動かすと言います。逆に、満足に体を動かせない人間、犬を自分へ集中させるのが困難な人々、例えば老人、病人、あるいは子供に扱われ、よそ見をしたりあるいはあくびをしながら、しかしその指示に忠実に従う犬もいます。犬を動かすには指導手に技量が求められます。そしてどんな人の言う事でも聞く犬には犬自身の判断力が求められます。訓練を積み重ねる事によってめざすのもその判断力です。そして実は訓練競技会で本当に問われるのも、犬を動かす技術や犬を巧みに訓練する技術ではなく、この犬の判断力なのです。訓練競技会でアマチュアがプロよりも良い成績を上げるのは、この犬の判断力が訓練の積み重ねによって養われ、アマチュアはプロが到底及ばないほど訓練を積み重ねるからです。

 犬を動かすには、犬の持つ多彩な習性を利用します。様々な誘導や強制は、その習性を使い分けたり、習性を組み合わせて成り立っています。叱ることも褒めることもそうです。習性をうまく利用して望む動作を無理なく早く引き出し、犬とのやりとりを良い形にします。例えば脚側の位置で犬を受けとめる場合、犬が早く脚即に来れば早く受けとめることが出来ます。[U人1] しかし習性は、あくまでもそれを利用して認識を強化するために用いるのであって、習性そのものを使い分け駆使して犬を動かすのが目的ではありません。習性に依存したり、それを用いて犬を動かすことに依存しすぎると、人の要求に対する認識の強化にはかえってマイナスになります。

 よそ見をしていると犬は言う事を聞かないのではないかと思われるかも知れませんが、よそ見をしていても大丈夫、犬は十分飼い主の言う事を聞く事が出来ます。例えば、指導手への集中を人一倍求める訓練競技会においてさえ、防衛作業では犯人に集中しつつ脚側行進や伏座(ふくざ)等を要求しており、犬は難なくこれをこなしています。どこを見ていようと心さえ主人の元にあれば良いようです。

   本質とは何か

 訓練を積み重ねる事によって、判断力はより確かなものになります。長い間訓練された老練な訓練犬は状況を良く理解し、今何が要求されているのかよーーく知っています。当然、訓練競技会ではこのような犬が良い成績を得る事が出来ます。ところが競技会で、このように良く訓練された老練な犬に混じって若い犬が上位に行く事があります。競技会で要求されるのは判断力です。その判断力の生まれながらにして高い犬がいるのです。いわゆる本質の確かな犬です。残念ながら、どの犬も同じ知能を持っているわけではありません。賢い犬もいればそうでない犬もいます。しかし、家庭犬として訓練する限りその差は全く考慮する必要はありません。時間はかかるかも知れませんが、結果的にどの犬も人の要求に対する十分な認識を作ることは出来ます。しかしそれは家庭犬としてのレベルの話で、訓練競技会など少しでも他より優位が要求される場面では違ってきます。同じ出発するなら、出来るだけ高い位置から出た方が、より高くまで到達出来ます。

 本質の確かな事、判断力の優れた事は知能が高いという事と全く同じ意味ではありません。いわゆる知と強さ、思考し答えを見つけ、かつそれを実行できる精神力を持つ事をも同時に意味します。訓練で様々な局面を想定して状況を設定します。そしてその経験が次に同じ局面に遭遇した場合いかされます。想定して練習した局面の数だけ犬の経験は増し、犬の状況判断の能力は確実に高くなっていきます、これが老練な犬です。しかし、どんなに訓練したとしても未知の局面、初めての経験は必ずあるのです。その時ものをいうのは犬の本質です。

 これは知と強さを表す一つのたとえ話です。川が流れています。橋を渡り向こう岸を上流に向かって犬を数頭連れて散歩します。川は用水のように岸から深くなっていて気軽に歩いて渡れるようではありません。しばらく行くと丸木が一本こちら岸まで倒れていて、人はそれを伝わってこちら岸に渡りました。さて、数頭の犬たちは困りました、主人に置いてきぼりです。賢い犬は主人が丸木を渡ったのを見て、丸木を渡ればこちら岸に来れる事は分かりました、しかしいざ手をかけてみるとどうしても恐くて出来ませんでした。しかし賢い犬は最初に渡った橋の事は覚えていました。急いでその橋まで引き返しそれをこちら岸に渡って、主人の元に行く事が出来ました。賢くはないけど勇気のある犬は丸木を渡ればこちら岸に来れる事が分かりません、川に飛び込みました。主人の元に一番先に行き着いたのは賢くて勇気のある犬です。彼は丸木を渡れる事を理解しそれを実行したのです。そして、勇気も賢さも無い犬はただうろうろするばかりで主人の元には行き着けませんでした。

 さて、問題はこの後です。私は犬を訓練するのが仕事ですから、それが楽な方がよいと考えます。また、本質の高い犬は競技会で良い成績を得る事も出来ます。実際に飼っても犬を飼う本当の喜びを教えてくれます。従って私は本質の確かな犬を望みます。しかし、犬を飼う事に不慣れな愛犬家はしばしば飼い易さだけを犬に求めます。そして例えば、勇気が無くて人の先に立って歩く事も出来ない、人の後に付いたりそばに離れずにいる犬が、散歩が楽な故に良い犬のように言われます。あるいは状況を判断する能力と心に欠けそれを人に依存してくる犬が、子供が親を慕うように犬から慕われたいと願う人々には可愛がられます。あるいは、力のある者に黙って従うような、そう順位付けしやすい、人にただ盲従するだけの判断力の鈍い犬が推奨される傾向もあります。そして更にそれは、本質の確かな犬への否定にまでなってゆきます。例えば、元気に健全に育った少し腕白なだけの犬は、ほとんど問題行動の塊です。犬を犬として扱えない事から生じた問題の責任は犬に帰すべきでは無く、人が負うべきではないでしょうか。交通事故は車が動くからではなく、運転する人の問題かと私は思うのですが。

   自由と自然

 脚側行進の時、犬は自由です。犬の自由!これが脚側行進の訓練を成功させる非常に重要なポイントです。犬は散歩が好きです、そして犬は貴方と一緒にいる事も好きです。ではどうして貴方と一緒に歩ける脚側行進が楽しくないのでしょうか?それは犬を拘束しているからです。「行っちゃダメ、行くなよ」と働きかけたり「ここだよ、ここ」「ついて、ここについて」と始終呼びかける事。これでは本来、楽をする為の脚側行進が犬にそれを要求したばかりに、人の重荷になってしまいます。もちろん、同時に犬にも負担です。自分の行動に始終干渉されるのですから楽しいはずがありません。犬を解放するのです、それによって人も解放されます。人も楽になりますし、犬も脚側行進が楽しくなります。

 命令する時に犬の都合を考慮する必要は全くありませんし、してはいけません。犬がヨソを向いていようと、はしゃぎ回っていようと、犬に要求するのに全く差し支えありません。犬が始めからあらゆる状態で、人の要求に答える事が出来るわけではありません。だから訓練するのです。犬の失敗(犬が答えることが出来ない事)を恐れる必要はないのです。タイミングも一切考慮する必要はありません。犬が合図に対して即座に答えるのを要求する必要はありません。合図をしそれを理解し犬は行動するのです。人の要求に対する確実な認識がないのに、動作ばかり求めても無意味です。人の要求に対する確実な認識が出来てくれば動作は自ずとはやくなります。集中力も全く必要ありません。良くボールや餌を見せて、犬にこちらに対する注意をあおります、これも無意味です。もし犬の心が飼い主になくて、犬が人の要求に気がつかなかったら、犬の心を飼い主の元に戻すまたとない訓練の機会を得ることが出来ます。犬の目につきやすいように犬の進路をさえぎって手をかざしたり、かがみ込んで命令する人がいますがこれもナンセンスです。興奮している犬を落ちつかせて冷静にさせることも必要ありません。とにかく犬の都合を一切考慮する必要はありません。タイミングをはかったり、犬に集中を求めたり、犬に冷静を求めたり、犬をこちらに向けようとしたり、すべてに無理があります。人も疲れるでしょうが、犬だって疲れます。いつまで散歩していても、なかなか犬が疲れたりあきたりはしないように、無理のない訓練・犬を拘束しない訓練をすれば犬は疲れません。

 公園を散歩する事を考えてみて下さい。良い天気です、鳥も鳴いています、花も咲いています。急ぐ必要はありません、ゆっくり歩きます。脚側行進も同じです。犬に対して一切気を使う必要はありません。犬が横にいても、犬がいない時と全く同じように歩きます。貴方も自由、犬も自由です。肩の力を抜きます。腕の力も抜いて伸ばします。引き綱は右手にまとめて持って犬を束縛しないように十分な余裕を作ります。前かがみにならないように、犬の方に傾かないように、犬を見すぎないように、犬も人も自然です(イラスト3)。犬を一切、束縛しません。見たいものを見させ、行きたいところに行かせます。この状態から訓練は始まります。さて、ではどうやってヨソに行きたい犬をコントロールするのでしょうか?

   チャンス

 アブナイ!車がきます、車が危ない事を知らない犬は平気で車に向かいます。一生懸命人は犬を抑えます。ところが訓練では犬を抑えません、行かせます、行かせて車と衝突させます。犬は懲りて二度と車に向かわなくなります。学習です。もちろん、実際にぶつけては致命的なので替わりを用意しますが、犬自身の判断を作るというのはこういう事です。

 これは恐らく、多くの(犬をコントロール出来ない)愛犬家の犬の取扱いと、正反対だと思います。犬に向かおうとする時、猫を追いかけようとする時、子供に飛びつこうとする時、向かうのを止めさせたい時には一生懸命犬を引き止めると思います。綱をピンと張って、それでも遮二無二行こうとする犬を「ダメヨ、ダメ!」と止めるのです。飼い主は、行こうとする犬の心を否定しているつもりなんですが、これは否定する事にはなりません。逆に犬は、肯定、あるいはもっと強く推奨されていると受け取ります。私のバックにはご主人様がついてくれてると考えるのです。恐いもの無しです(^^;) 解放して下さい、自由にするのです。引き留めないで行きたいところに行かせます。こうする事によって、犬と力くらべ(犬を引き留める事)をしていては絶対得られないものを得る事が出来ます。即ち、車は危ないという犬自身の認識です。犬は次からその認識に従って行動します。

   げいむ

 人の来ない野原で犬を放します。良くやる事ですが、犬のスキを見つけて隠れたりします。犬が人のいないのに気がついて一生懸命捜すのを楽しみます。すぐ見つけられるとがっかりです。次はもっとうまく隠れようと策をめぐらせます。しかし何回かやると、犬もなかなかスキを見せなくなります。

 先に交差点があります。犬には十メートルの綱を付けました。貴方は真っ直ぐ行きたいし犬は左に行きたいようです。今までは行きたがる犬をしゃにむに抑えて一緒に連れて行きました。今度は犬の自由にさせます。貴方も行きたい方に行きます。犬は左に貴方は前に、やがて十メートルの綱は伸びきります。この時犬にショックが伝わります。このショックの瞬間、犬は改めて自分がつながれている事を知ります。同時に、自分の行動を支配している存在を意識するのです、貴方です。しかし貴方の姿はみえません。貴方は角の向こうに消えています、さあたいへん!ご主人様がいない!野原で、一生懸命ご主人様を捜す犬と一緒です。しかし、犬も次からは考えます、簡単には貴方のそばを離れようとはしません。そうすると、しばらくして貴方は観念するのです。「お前は賢い犬だ、ヨシヨシ」。

   スパイク

 この綱によるショックが車の替わりに用いられます。これはナチュラルですが、ナチュラルでは車に匹敵する効果を得るのは難しいので、綱が張られる瞬間、更にショックが強くなるように人の力も加えます、これをスパイクといいます(イラスト4)。このスパイクが車の替わりになるか、それとも犬を束縛する事にしかならないかが、犬をコントロールする大きなポイントです。スパイクが続けて四回も五回も出来るようなら、それは車の替わりにはなっていません。犬はそう何回も続けて痛い目にあいたいとは思わないからです。ほとんどの飼い主は小さなショックで済まそうとします。痛い思いをさせたくない、車にぶつけたくないと考えます。車にぶつけまいと引き留める事と同じで、犬が学習する(またと無い)機会を潰します。

   呼び

 招呼(しょうこ)の矯正の仕方ですが、叱る方法は一歩間違えるとせっかく来たのに叱られたと犬に受け取られがちです。アマチュアにはそのタイミングが難しいかも知れません。ここはやはり偶然、誘導、強制、叱るのうち強制という方法を選択すべきでしょう。ヤードを使っての強制が効果的かつ無難です。あらかじめヤードをつけておいて他の犬、人など飼い主が呼んでも来ないほどその犬の好きな所へ行かせます。そして例えば他の犬にニコニコしている所などを「コイ」の声符とともに強くヤードを引きます(イラスト5)。ここが強制のポイントなんですが、この時犬をぬいぐるみのように、まるでそこに意思の無い物体のように扱う事です。ここで犬を犬として尊重してしまうと-例えば「いい子だから来て頂戴」などと犬に頼みこんでしまうと-強制にはなりません。思いきり引っぱったにも拘わらず、ケロッとしてまた行きたいところに行くようならまるで効いてません、効くまで繰り返します。様子を伺い伺い行くようなら少しは効いています。こういう時は行くな!と束縛しないでにこにこ笑って行かせます。そうしておいて再度「コイ!」で思いきり引っぱります。そして犬が、「何事ですかご主人様?私は貴方のメンコの××ですよ」と不安そうに貴方を見上げるようなら、その不安を解消します。抱きしめて「よしよしいい子いい子、もちろんおまえは私のメンコだよ」と良く撫でてやります。じゅうぶんに撫でたなら自由にします。行きたいところにわざと近寄り様子をうかがいます。こちらを気にするようなら(これは答えです)撫でてやり、行くようなら行かせて少しの間だけ自由にします(二、三○秒)そこで先ほどのように強く呼びます「コイ」。以上の経験が犬にまるで残ってないようなら始めからやり直しです。私はこれを紐をつけての散歩に慣れた生後四、五カ月の頃の犬のすべてに行っています。ほとんど一回の強制で生涯有効です。

 ある程度認識が出来ている犬には強制より叱る方法を用いるべきでしょう。特にプロなら、犬と心理的な駆け引きが出来るはずですから、ヤードも強制という使い方でなく叱る意味で用い、場合によっては投鎖等の飛び道具も用意します。心理的な駆け引きが出来るとは、犬にせっかく来たのに叱られたと思わせない叱り方が出来るという事です。招呼の矯正には二つの部分があります。来ない事を叱る部分と来た事を褒める部分です。来た犬を叱るとこの後の部分、いわゆる犬を受けとめるという事が台無しになってしまいます。犬を受けとめる:キャッチングは非常に大切です、この部分ではまさに犬の心を受けとめているからです。ただアマチュアにとって難しいのは、このあくまでも来たのを受けとめる行為をはみ出してつい迎えに行ってしまう事です。迎えに行っては(犬の答える部分を人が奪っては)台無しです。来ない事を叱る部分で犬の心を強く遠ざけ、跳ね返ってきた心を受けとめるのです。呼びの効かない犬にとって一番の味方は、大きな声で名前を呼びながら後を追いかけて来てくれる心優しいご主人様です。

   犬を信頼する

 「訓練したら犬は呼んだら来るようになりますか?」と良く人に質問されます。「もちろん」と答えますが、それは商売上の回答です。正確には「ある程度は」と答えるべきでしょう。「呼び」というのは、実は複雑な問題をはらんでいます。

 例えば、捜索という訓練があります。これは足跡をたどって人の歩いた後を犬に追跡させる訓練ですが、これが何を要求してるのかを犬に明らかにするには相当の日数がかかります。いくら犬使いの達人が秘術の限りをつくしても、その訓練を受けてない犬に捜索の作業をさせることは出来ません。しかし「呼び」は、犬によっては数日の矯正で来るようになります。犬使いの達人が扱えばほとんどそれらしい訓練をしなくても呼んだら来るのもいます。この来る犬を飼い主が扱います。犬は呼んだら来るでしょうか?むずかしいでしょう。犬が元に戻るわけではありません。「呼び」というのは飼い主とその愛犬との関係の問題なのです。訓練(服従訓練)はすべて、人と犬との関係がその根底にありますが、「呼び」ほどそれを象徴的に表すことはありません。「呼び」・招呼は服従の基礎と良く云われます。

 呼びの効かない犬にとって最大の味方は、大きな声で名前を呼びながら後をついてきてくれる心優しい飼い主です。「ダメよ」「ダメよ」といいながらも、結局は好き勝手を許してくれる飼い主と一緒で、犬にとっては親方日の丸、頼りがいがあります。また、手も足も出ない状況をつくりだし、状況を支配し人を翻弄するというまたとない醍醐味(天にも昇るような快楽)を味あわせてくれる飼い主も、呼びの効かない犬の大きな味方です。 

 さて、犬にとってこの心優しい飼い主より魅力的なものが何かほかにあるでしょうか?「一緒にアーーソボ」と誘ってくる他の犬達でしょうか?セクシーな牝犬でしょうか?おいしい餌でしょうか?確かに魅力では負けそうですね。しかし犬にとって本当に大切なのはやはりこの心優しい飼い主しかありません。天秤に掛けて「どちらを取る?」と突きつけて心優しい飼い主を取らない犬はいないでしょう。とはいうものの、この天秤がおいそれと手にはいるわけではありません。また、ヨソの犬とのふざけっこに夢中で呼んでも来ないからといって、可愛い我が子を置き去りにも出来ません。結局は、この人の甘さに多くの呼んでも来ない犬は依存しているのですが。

 距離があろうと無かろうと犬の答えかたに変わりはありません。引き綱の長さの距離で答えることが出来る犬なら10メートルでも100メートル離れていても犬は答えてくれます。オーナーが面会に来て、犬が喜んでいます。犬から首輪をはずし、はずした綱を飼い主に持たせて散歩をうながします。散歩から帰ってきたオーナーが言います。「どこかへ行ってしまうような気がして、今まで外で綱を離した事はありませんでした。大丈夫なんですねえ。」この犬、私は来たその日から綱を離して散歩しています。人からの働きかけに答えるかどうかは、綱を離してみなくても分かります。

 さて後は、遠く離れた犬に近くにいるときと同じ様に働きかけるには、どうすれば良いかです。呼びの効かない犬にとって最大の味方は、大きな声で名前を呼びながら後をついてきてくれる心優しい飼い主です。犬には、飼い主の呼び声がトルコ行進曲のように聞こえていることでしょう。しかし、このバックについている親方日の丸的飼い主が突然目の前に立ちはだかったら、これは犬にとっては驚異です。飛び道具を使います。鎖をぶつけたり、綱をぶつけます。あるいはヤードをつけてスパイクします。手加減してはいけません。もし犬がこれを、飼い主も一緒になって遊びだしたと受け取ったら、最悪の結果が待ちかまえています。ギョットするか、不安そうな態度が現れたら、犬をやさしく受けとめます。

   散歩

 散歩をなおします。あいにく私は犬が臭いを嗅ぎ終わるのをじっと待っているほど、気が長く出来ていません。オシッコをするなら待ちますが、そうでなければ構わず歩きます。綱が付いてますから私が動けばいやでも犬も動きます(訓練ではないので、決して蹴ったりはしません)。私は移動体です、常に移動しています、恐らくほとんど同じペースです。犬は私の回り、綱の長さを半径とする円の中でだけ自由です。私が円形のサークルごと移動していると考えて下さい。そのサークルの中心に私はいて、犬はそのサークルの中に放たれています。そのサークルにいくら犬が働きかけても私の進行方向は変わりません。やがて犬はそれを理解します、私を中心として動くようになります。行きたがるからといって犬に付いていくと、このサークルは粉々になってしまいます。また、移動しないで犬だけ力任せに引いても、サークルは無くなってしまいます。決して綱は引きません。サークルに犬が触れそうになる瞬間、イクヨって小さく声をかけたりもします。

 せがまれて子供に犬を買い与えます、欲しいって言ったのだからと散歩の役割を子供に押しつけます。あっと言う間に犬は大きくなり、力で及ばない子供は犬の意のまま引きずられて散歩を続けます。犬は自由気ままな散歩を覚えます。そしてだいの大人でも制御が困難なほど好き勝手に動き回る犬になります。ある程度犬が大きくなるまで大人が散歩をして、好き勝手ではなく人を中心に動く事を犬に教えるべきです。そうすれば子供でも楽に散歩できる犬になります。

   対話の始まり

 ヨソの犬に向かおうとする時、猫を追いかけようとする時、子供に飛びつこうとする時、向かうのを止めさせたい時には一生懸命犬を引き止めると思います。綱をピンと張って、それでもしゃにむに行きたがる犬を「ダメヨ、ダメ!」と止めるのです。飼い主は、行こうとする犬の心を否定しているつもりなんですが、これは否定する事にはなりません。逆に肯定、あるいはもっと強く推奨されていると犬は受け取ります。私のバックにはご主人様がついてくれてると考えるのです。恐いもの無しです。これをヨソの犬に吠えかかるのを例に解消する方法を紹介します。

 吠えかかった時にはきっと引き綱がピンと張られていると思います。その綱が弛むまで、引き綱の端で犬のお尻を叩きます(イラスト6)。くどいようですが綱が弛まなければなりません。これできっと、貴方にお尻の穴を見せてヨソの犬に吠えかかっている状態は解消されると思います。犬にとっては今まで全面的にバックアップしていてくれた飼い主が、突然目の前に立ちはだかるのですから、ギョッとするかポカンとしていると思います。そしたらしゃがんで優しく呼び寄せ撫でてやって下さい。引き続き散歩を続けますが、また犬が吠えついたら同じ事を繰り返します。吠えつかず、貴方を見るようなら(これを見逃さないように!犬の答えです)呼び寄せ撫でてやります。

 ある意味では主人と向き合ったこの時が、犬と人との本当の対話の始まりかも知れません。これは“げいむ”で見失ったご主人様を捜す犬と一緒です。空気のようにその存在さえ意識しなった、しかし自分にとって非常に大切な存在を犬は意識し始めます。

   情報収集

 私にとって訓練しにくいのは尾の無い犬です、実に表情がわかりにくい。ふだんいかに尾によって犬の心を確認しているのか良く分かります。そして同時に、得られた犬の心の情報が、人の次の動作の組み立てにいかに役立っているかも良く分かります。目も犬の心を教えてくれます。どこを見ているかによって、犬の心がどこに在るのか良く分かります。案外、犬の心の状態を教えてくれるのがその口です。口から犬の呼吸をみます。犬は安心していれば口を開けて呼吸します。大きな口を開けていれば不安は無いとみるべきでしょう。例えば犬に、それまで思いこんでいた要求と違う事を要求し始めて犬が不安になっている時、なだめるように褒めてその不安を解消してやるのですが、その不安の状態を知るのに非常に役に立ちます。目と伴に犬の心の動きを示すのが耳です。耳を寝かせて目を細め口を大きく開けて尾を振って貴方を見ているなら犬は喜んでいます。

 さて、尾は特に犬の心のバロメーターとして重要です。脚側行進の時の尾の状態と散歩する時の尾の状態とをくらべてみて下さい。一緒であるか、より高く保持されているか、あるいはより振られていれば問題ありません。より低いか動きに乏しい場合、犬は貴方に何らかの束縛を感じています、あるいは不安を持っています。要求されている事が理解できない場合も犬の心はすぐれません、尾に現れます。そして要求されている事への認識が固まってくると伴に、尾は高く力強くなっていきます。

 不安はしばしば人が思っても見ない形で現れます。おびえ・とまどい・警戒・慎重さ・怪訝等を不安の現れとみなします。しかし、興奮という形で現れることもあります。例えば招呼の訓練の初歩では、それまで動くことは良くないと考えていたため、急に動くことを要求されて不安を持ちます。その為、勢い良く走ってきたり、来たとたんにじゃれ始めたりします。又おろおろする飼い主を尻目に、手に入れた自由の喜びで切れたように走り回る犬も同じで、喜びと伴に不安を持っていたりします。又、呼ぶと人の手元まで来ては捕まえようとすると走り去って、それを楽しんでるようにみえる犬も実は不安を持っていたりします。人は喜んでいると勘違いしがちですが、手の中にいれなだめるべきです。何を要求されているのか理解できないときにも、犬は不安を持ちます。例えば、強制を受けたりして人に答えたいという気持ちを伴えば、その不安は人に対する強い働きかけになって現れます。飛びついたり、じゃれてきたり、咬んできたり、人に答えたいという気持ちの強い犬ほど、攻撃に近い形にまでになって強く現れます。これに否定的に対応すると、犬は答えるのを止めたり、人に対して不信感を持ちます。答えたいという気持ちは大切に受けとめます。この気持ちは、どんな形にでも振り向けることができます。   [U人2] 

 そもそも犬が、じゃれたり、咬んだり、攻撃的になるのは、確実に人に対する働きかけです。特に、人に対してどのように働きかけたらよいかを模索している若い犬は良くこういう行動をとります。[U人3] 相手をして一緒になってじゃれ合うと「人」としての立場は悪くなります。中途半端に叱ると相手をしてくれたと思います。否定的態度、叱ったり無視したりは、人に対して働きかけようというせっかくの犬の心を蔑ろにします。まだ幼くて、簡単に抱ける犬なら胸に抱き上げて撫でてやります。若い犬なら、ほっぺをわし掴みにして引き寄せて立たせ、頭を撫でます。それが出来ないようなら、引き綱を使います。スワレの要領で犬の顔を人の顔の近くまで引き寄せ撫でます。犬が人の顔をなめるのは構いません。撫でた後は犬の自由にさせます。又、働きかけてくるようなら同じ事をします。そしてまた自由にします。もう一度じゃれてくるようなら、今度は否定します。犬が止めれば、しゃがんで呼び寄せ撫でてやります。いずれにしろここに孫悟空の話


 [U人1]につくのが遅れてほめRいちにつくのがおくれてそれが出来なくて人の要求が間違って受け取られたりすることがないように

意図することの焦点がずれないように配慮します。とは要っても犬の様々な修正は、訓練に置いて利用されている。

 [U人2]叱られた時は背中の千よりしたにあるべきである。

これには否定的に対応したり、一緒になって相手をしないで受けとめてやります。 [U人3]

家庭犬の訓練 3

   ☆☆☆ 答えを引き出す ☆☆☆

   偶然・誘導・強制・叱責

 訓練はやりとりです。犬に働きかけ(要求)、犬から答えを引きだし(動作)、その答えにこちらも答える(褒める)。この犬から答えを引き出す方法が大きく分けて四つ有り、状況に応じてこの四つを使い分けます。

 その一つは偶然に頼る方法です。何回か命令し望む行動をとった時だけ反応する。あるいは望む行動をしそうな時に命令する、いわゆる機会教育です。例えば良くやるのが餌の時にオスワリ、オスワリといって座るまで与えないで座ったら与える。非常に幼稚な方法ですが馬鹿には出来ません。ある熊牧場の熊は教えられたわけでもないのに、観光客が投げる餌目当てにボリショイサーカスが足元にも及ばないような芸を披露します。

 次は誘導です。ボールや餌で釣って、犬がそれを追いかけて気がつかないうち人の望む行動をとらせる、あるいは犬が望む行動をしやすいように人が動く事です。偶然に頼るよりはるかに効率的です。この方法の欠点は、気がつかないうちにやらせてしまうので人の意図にもなかなか気づいてくれない事です。また、犬が行動しやすいように人が動く事は、人が犬を助けています。その助けが人への依存をうみ能動性が出来づらい結果となります。助けすぎると犬は自分で答えようとするのをやめてしまうのです。

 三つ目は強制する方法です。イヤな事を無理矢理させます。犬は抵抗します。この抵抗が強力な意識を生みます。また、犬の自主性を無視するくせに最も強く能動性を引き出します。

 最後は叱る事です。これはある程度意識づけが出来ている場合、その意識をより強固なものにする為に用いられます。その意識をより所に叱ります。出来るはずじゃないか、分かっているはずだろうという信頼から犬を叱り意識を強化します。犬とのやりとりの上では、答えてくれると見込んで犬と接する方が、出来ないと決めつけて取り扱うより、良い結果を生む事がしばしばあります。信頼される事によって犬は自分自身で答えようとします。そしてそれが犬への新しい評価、信頼へとつながります。

 注目していただきたいのは二点。まず、叱る事と褒める事が必ずしも対になっていない点です。人が答える事(褒める)はいずれの場合でも必要です。もう一つは、目的が犬の判断にある事です。強制しても叱っても、それは力で抑える為ではなく犬の判断を作る為だという事です。

   誘導

 多くの犬は要求に対する確実な認識が無くても、日々の生活の中でその時の雰囲気やニュアンス、あるいは習慣によって伏せたり座ったり人の言う事を良く聞いてくれます。気の利く犬になると、日常の生活のリズムや人の行動から察知して、命令しなくても伏せたり座ったりします。これで十分と考える人もいるかも知れません。しかし例えば、嬉しさのあまり子供飛びつこうとする時「フセ」で伏せてくれたら、あるいはヨソの犬を追いかけようとする時「コイ」で帰って来てくれたら、ふだんの生活で命令もしないのに言う事を聞いたり、食べ物欲しさに難しい芸当をやってくれるより、ずっと助かります。本当にやって欲しい時こそ言う事を聞いてもらいたいものです。それを犬に望むなら、人の要求をその時のニュアンスや雰囲気ではなく、どんな場合でも犬に通じるものにしておくべきです。それが合図です。合図だけで要求を伝える事です。

 犬が望む行動をしやすいように人が動く事は誘導です。家の犬は「スワレ」が出来る「フセ」が出来るという中に多いのが、この誘導を伴っている場合です。本人が知ってか知らずか、言う事を聞き易いよう犬に配慮しているのです。例えば、脚側行進の際、朝会社へ急ぐサラリーマンより早く歩いたり、訓練にリズムやタイミングを作ったりしています、これらの行為はすべて誘導です。実際それらの犬が本当に命令だけで行動しているのか:即ち要求されている事への確実な認識があるのかとなると疑問です。これらの微妙な誘導は、しばしば犬自身の本当の判断力を作る上で大きな妨げになっています。犬がやらないからと言って、何時までも餌を使ったり物を使う事も広い意味では、これと同じかもしれませんね。これらの誘導は人の方から先に止めなければなりませんし、止めてみる事です。そこからまた、違った何かを得る事が出来るはずです。

 人為的な誘導とは違いますが、日々の訓練の中でも知らず知らずの内に命令以外の事が、人の要求を犬に暗示させている場合があります。例えば「スワレ」の訓練の次は必ず「フセ」だったり、あるいは決まっていつも同じ位置で同じ動作を犬に要求したりする事です。なれ合いです。これも犬が言う事を聞き易いように訓練をしている事と同じです。競技会では犬や指導手の都合は全く考慮されず、指示された場所で指示された動作をしなければなりません。節度と表現されますが、名犬になるのが人や犬の都合では困るのです。

 付録に犬の判断力テストを添付しました。そのテストで犬に要求するのは「スワレ」「フセ」「タッテ」だけです。このテストで高い得点を取る事が出来なくても、決してその犬の判断力が低いわけではありません。しかし、高い得点を得る事の出来る犬は間違いなく高い判断力を持っています。時間はかかるかも知れませんが、ほとんどの犬は訓練次第でこのテストで高得点出来る資質は持っています。そして恐らくほとんどの人は愛犬を、このテキストで紹介する方法で訓練出来るでしょう。

   強制

 強制はイヤなのを無理に行う(させる)事です。イヤがらなければ強制の意味はありません。しかし、犬のイヤがる事をしても大丈夫でしょうか、訓練をイヤがったり無理じいした人を嫌いになったりしないでしょうか?

 首輪をつける事、散歩、車に乗る事、フセ、注射、ハウス、手入れ、歯石落とし、お風呂、、、犬のイヤがる事です、しかしこのうち歯石落とし以外は後から好きになりそうです。注射はいがいでしょうが、実験用の犬は毎日点滴していると、自分から手を差し出すようになるそうです。首輪は付けはじめの時はほとんどの犬がイヤがります。綱をつけると動かなくなるのも多いようです。でも、これで散歩に行けるんだって分かりだすと進んでつけさせたり、自分で綱をくわえて持ってきたりします。車に乗る事をイヤがる犬も多いようです。しかしそういう犬に限って、慣れてしまうと逆に車が大好きになるようです。こうしてみると、初めイヤがる事でも後から犬が好きになる事が多いですね、喰わず嫌いの様なものでしょうか?その良さが分かると、イヤがった事があったとは信じられないほど好きになります。人はイヤがる事を無理にさせるのはとか、イヤがるからやめとこって考え、イヤがる事を犬にさせるのに抵抗を持ちます。しかし犬の場合プレッシャーはいつまでもプレッシャーではありません。そこに生じるストレスを解消する事で、逆にそれを好きにさせる事が出来るようです。プレッシャーを与えるからと引き下がる事はないのです。

 例えば、散歩が終わって首輪をつけるのに私は良く犬をだまします。犬の好きな物を見せて、それを追いかけてる内に犬は首輪に顔をとおしているという寸法です、通ったところで好きな物を与えます。しかしこれは、こうしているとそのうち犬が、自分からすすんで首輪に顔を通すようになるわけではありません。首輪に顔をとおす事をいやなものとして意識させないだけで、それが好きにはなりません。何故なら犬には、首輪に顔をとおしたという意識は薄く、単に好きな物を追いかけた事しか残っていないからです。訓練で良く餌で釣ったり、物で釣ったりして仕事をさせますが、それが何時まで経っても身にならないのもこれと同じです。犬に仕事をしたという意識が残らないからです。犬はただ単に報酬を手に入れたと思ってしまうようです。

 さて良くいるのが、散歩が終わってハウスへ入れようとするとイヤがって座り込んでしまう犬です。無理して入れようとすると両足を踏ん張り抵抗します。どうしましょう?

 一:抱きかかえて運んであげる。

 二:ご機嫌を取り、入ってくれるよう頼みこむ。

 三:大好きな物でつって、気が付いたらハウスの中にする。

 四:後ろから親切丁寧に押してあげる。

 五:腕ずくで有無を言わさず放りこむ。

犬の能動性が一番出てくるのが五です、これが強制です。有無を言わさず放りこむと、犬は自分から進んで入るようになります。四は面白いですね、自分でハウスに入っていた犬でもこれをやると人の助けを待つようになり、助けてやらないと入らなくなります。二の機嫌を取るのも面白い、「お願い入って」とか「良い子だから」なんて機嫌を取ってると犬はどんどんつけあがって行きます。三は前記の通り効果ありません。

   ストレス

 人と犬とが生活をしていて、犬が自由にのびのびとして人に親愛的であれば、それだけで人と犬は良い関係と言えるでしょうか? 人が何かを要求して負荷を与えても犬がそれをストレスに感じない事、それどころか喜んでその要求に答えてくれる事、これが人と犬との本当の良い関係だと私は思います。それはオスワリという簡単な事から犯人のあとを追えというような難しい要求(強い負荷)に対してもです。ふだんはニコニコしていてもほんのささやかな束縛(弱い負荷)、例えば耳掃除をするからじっとしていなさい、というような事でさえストレスを感じるのがいます。これは良い関係とは言えないと思います。

 シンディー(アイちゃんの子)は叱らずに育てました、というより叱るチャンスがありませんでした。叱られるような事をしませんでした。アイちゃんは叱られました。小さい頃、呼んでも来ないのでこっぴどく叱られました。今では、二頭とも非常に良く喜んで服従します。しかし、アイちゃんがあらゆる条件で喜んで服従するのに対して、シンディは時として人の要求に負荷(ストレス)を感じている事があります。シンディは好きな物は喜んで持ってきますが、捜索の訓練を開始して、捜索物品の持来を要求した時根強い抵抗にあいました。その強制がストレスになったのです。

 強制がストレスになるなら強制しなければ良い、というのは事故を起こすから車に乗るなというようなものです。間違いは強制がストレスになるような育て方だと私は考えます。シンディは過保護にしすぎました。強制や叱る事は犬にストレスを与えるからしないで育てるか、強制や叱る事が犬にストレスにならないように育てるかです。私は後者をすすめます。行動への束縛を甘んじて受ける犬に育てて欲しいと思います。強制や叱る事がストレスになるような育て方をすると、ほんのささやかなプレッシャーがストレスになる場合もあるようです。例えば耳掃除をするからじっとしていなさいとか、注射をうつのに犬を押さえるような事です。もっとひどいのになると頭を撫でようとしたら怒ったり、向こうを向いているのをこちらに向けようとしただけで怒りだしたりする犬もいます。いずれも人の意図がプレッシャーになるようで、運命を人にゆだねる事への抵抗です。これらは育て方に起因しています。これらのほとんどは強制や叱る事なしに育てられた犬です。人を咬むようになるのはこういう犬です。

   叱りかた

 叱る事もやりとりの一つです。叱る事は強い働きかけになります。例えば、いくら呼んでも素知らぬ顔をして好き勝手な事をしている犬は叱るべきです。叱る事は何らかの信号が自分自身に向かってされたものだという事を犬に強く意識づけます。人の必死の呼びかけが、単なる音楽ではなく自分自身へ向かって発せられているのだという事を犬に気づかせるのです。叱る時には犬に答えかたを分かりやすく用意します。そして犬の答えをうまく受けとめてやります。この犬の答えを受けとめる事、すなわちキャッチングが大切です。叱りっぱなしになったり、犬が答えているのに気がつかないと犬は答えるのをやめてしまいます。くどいようですが、叱る事は犬とのやりとりです。犬から答えを得る為に叱るのです。褒める為に叱るのです。

 例えば、犬から答えを引き出す四つの方法、偶然、誘導、強制、叱責のうち、偶然を用いれば犬に全くストレスを与える事なく答えを引き出す事が出来ます。それに答えるには、犬に人が答えた事が良く分かるような明瞭な表現、例えばオーバーなジェスチャーで動くだけで十分です。しかし、犬に何らかのストレスを与えたとしたら、それを解消してやらなくてはなりません、多くは不安をいだきます。これを受けとめる事で解消します。抱きしめたり抱きかかえたりして、犬を腕の中でいたわります。犬が脚側にある場合は、やさしく彼女の肩を抱くように肩に手(左手)を回します、右手は犬の首から胸にあります。必ず両手を使います(イラスト1)。

 もう一つ叱る事で大切な事は、強く叱る事です。ボールを壁にぶつける事を考えてみて下さい。強くぶつけると勢い良く返ってきます。犬を叱る事も同じです。叱ると吹っ飛んでいってしまうのではないかと考えがちですが、強く叱るとかえってきます。逆に叱り方が弱いと、わざわざ拾いに行かなくてはならない目にあいます。犬をかばって弱く叱ります。犬はミスを繰り返します。すると再度犬を叱らなくてはならない事態が生じます。結果、何回も何回も犬を叱る事になってしまいます。叱る回数が増える事は叱っても効果の無い実績が積み重なり、人の叱りはどんどん力を失っていき益々効かなくなります。その何回か分をまとめて、はじめに叱っておけば足りたはずです。

 叱る事が力の誇示になってはいけません。叱るぞって犬をおどす事で服従を求めているとすれば、それは訓練としてはいい形ではありません(訓練とは言えないと言うべきか)。訓練では叱るぞって素振りは見せません、にこにこ笑いながらミスを誘って叱ります。喜んで叱ります。人が犬より優位に立てるのは、そういう様に状況をセッティング出来る立場にあるからです。例えば拾い食いをなおそうと思ったら、意図的に犬が拾って食べるようにセッティングすべきです。犬が拾って食べてるのを見つけてから追いかけたのでは遅いのです。しかし、知恵くらべという本来犬より人の方が得意なはずのこの分野で犬に負け、状況の支配権を犬に取られている愛犬家は結構いるようです。逆に、犬の領分ともいうべき威嚇や暴力という非人間的な分野で、犬顔負けの人もいるようですが。

   心を得る

 犬に向かおうとする時、猫を追いかけようとする時、子供に飛びつこうとする時、向かうのを止めさせたい時には一生懸命犬を引き止めると思います。綱をピンと張って、それでも遮二無二行こうとする犬を「ダメヨ、ダメ!」と止めるのです。確かに体は手元に残っていますが、心は既にありません。

 犬が一人さびしそうにしています。名前を呼びます。犬は喜んで駆け寄ってきます。犬に働きかけて、犬の心を得ました。叱ることも同じです。呼ぶことも同じです。働きかけて犬の心を得る、これも重要な、そして基本的な犬を動かす技術です。叱ったら萎縮する、叱ったらいやいや何かをする、あるいは叱られるからいやいや犬はやっている、どうも叱ることにマイナス指向しか感じない人がいますが、叱ることは強い働きかけになります。そしてその働きかけで犬の心を得ることが出来ます。さびしそうにしている犬に言葉をかけることと、何かに夢中になってこの世に飼い主が存在していたのを忘れている犬を叩くことは、同じ働きかけなのです。そして同じように犬の心を得ることが出来ます。たいていは犬の方から懐に飛び込んできますから、後はそれを受けとめるのです。

 強制では犬を物のように扱います。犬は物のように扱われたことに猛然と反発します。答える気持ちが強い犬ほどそれは強いでしょう。しかし、その気持ちが必ずしも人の要求する動きとなって現れるわけではありません。例えば脚側を要求していても、はじめから犬にその場所は分かりません。しかし、人(の働きかけ)に答えたい云う気持ちは形になって表れます。飛びついたり、咬んだり、じゃれたり、これは受けとめます。望む形と違っても、これを更に追い込むことはマイナスにしかなりません。人に答えたい、その気持ちをまず受けとめてやるのです。正確な形には後から持っていきます。回しすぎてもネジは馬鹿になります。答えるすべを知らない犬に働きかけすぎたり、あるいは犬が答えているのを無視したり分からずに働きかけ続けたら、人の働きかけは犬にとって苦痛でしか無くなります。

   報酬か答えか

 訓練はやりとりです、人が犬に要求し(命令)それに犬が答え(動作)更に人が答えます(褒める)。このやりとり=自分の働きかけに相手が答える事がお互いの心の結びつきを作り、次のやりとりがよりスムースに人の要求が更に明確になります。ほめるのに頭を撫でたり、褒美、報酬という意味合いを込めて餌をやったりします。褒美を使うと犬は次からご褒美目当てに良く言う事を聞くようになるかも知れません。また、ご褒美を目当てにさせて犬を楽にコントロールする事も出来ます。しかし、大切なのは犬に何かをさせる事ではなく何かを伝える事ではなかったでしょうか?ご褒美は犬がそれを目当てにし出した時から、いわゆる足元を見るというような立場で犬に対処しています。暴力ではありませんが力の支配です。その力の背景が無くなれば当然支配力は失われます。褒美を使ったとしても答えるという気持ちが大切です。

 例えばドアがあります、ドアを開ければお散歩です。スワレを命令して下さい。座れば褒める必要はありません、ドアを開ければ良いのです。撫でたり報酬を与えるばかりが答える事ではありません。答え方には色々な形があります。ボールや木片など動く物に興味を持つ犬にはそれらを投げるのも一つの答えです。犬は自由に走り回る事が好きです、何かをしたら首輪をはずす事も答えになります。犬からの答えをきっかけに犬から離れたり、犬の元に帰ったりする事でさえ犬への答えになります。思わず出てしまった心からの表現や、心底からの感動などは犬に大きなインパクトを与えます。

 気をつけなくてはならないのは犬の答えを見逃す事です。せっかく犬が答えを返しているのに、それに気がつかないでいたら犬の気持ちはないがしろになってしまいます。しかし、何から何まで犬に答える必要もありません。あまり親切に答えていると、知らず知らずの内に犬の思い通りに動いている事になり、いわゆる犬に飼われている状態になるのです。また、望んだ事がすべて叶えられると犬に勘違いさせるのも危険な事です。例えば社会のルールは、いくら全能の神ご主人様でもどうにもなりません。しかし、ご主人様なら何とかなると思い込んでいる犬は案外多いようで、当然そう思わせている人がいるわけです。厳しくする事は犬に対してでは無いようです。アレックは誰が来ても知らん顔して指示された位置でじっとしています。困るのは犬好きのおばさんです、いじらしいぐらいじっとしているアレックを見て「まあお利口さん!」と頭を撫でたりおやつを与えます。誰が来ても知らん顔していたアレックは、誰かが来ると何かを期待するようになります。マナーの良い犬を作るのに日本には大きな障害がありそうですね。

 もう一つおちいりやすい過ちがあります。犬に働きかけ、犬から答えを引きだし、その答えにこちらも答える。陥りやすい過ちはこの犬が答える部分です。犬が答えるのを助ける事は大切です、犬には親切にすべきです。しかしそれも程度問題です、助けすぎて犬の代わりに人が自分で答えてしまっては、やりとりは台無しです。人のひとり相撲で、犬は自分の意志を持たないお人形さんになってしまいます。こちらが与えたら次は犬の答える番です。あくまでも犬の答え、犬自身の答えを要求して下さい。

   対話の限界

 人でも同じですがオシッコをしなさいという要求は、例えばスワレの要求と違って何時でも叶えられるものではありません。また、ご飯を食べないからといって叱って食べさせようとするのも間違っています。体の具合が悪くて歩く事が満足に出来ない犬は、訓練で歩かそうと考えずに獣医さんに連れて行くべきです。何から何まで訓練次第で犬が出来るようになるわけではありません。訓練で出来るのは、犬が要求を理解しさえすれば肉体的にいつでも可能な事だけです。生理に近い事は訓練以外の方法を試みるべきです。[U人1] 

 例えば、猫を見ると攻撃的になり見境無く咬みに行こうとする犬の、猫を咬みに行こうとする行動は矯正できますが猫に対する攻撃的な性格まではなおせません。例えばフセて待たしている時、その犬の大好きな奥さんが通りかかり、犬はフセるのをやめて奥さんの所に遊びに行ったとします。この場合、大好きな奥さんが通りかかっても伏せていられるようには訓練できますが、大好きな奥さんを嫌いにさせる事は出来ません。一般的な訓練では犬の気持ちまで変えようとはしないのです。気持ちは残したままで望ましくない行動だけ矯正しようとします。例えば散歩の時、ヨソの犬に向かっていく犬や子供に飛びつく犬、猫を追いかける犬には脚側行進を要求します。犬がその要求に答えてくれれば不都合は解消されるはずです。更に招呼(しょうこ)をも訓練しておけば犬と距離が離れていても、いざという時には犬を呼べば問題は起こりません。気持ちや性格を変える事、即ち人格を変える事が出来ないわけではありませんが、ほとんどの場合それは悲劇です。

 例えば、犬が不安でいるとき、その不安でいる気持ちを叱って直すことは出来ません。言いつけたことをいやいやするからといって、叱ったり強制したりして喜んでするようにも出来ません。犬に要求できるのは動作だけです。それにともなく気分、感情、精神状態まで犬に要求してはいけません。適切な方法で要求を伝え、犬の答えをしっかりと受けとめてやれば精神状態はおのずと伴ってきます。

 訓練は積み重ねです。昨日と同じ今日はなかなかありません。昨日は強い風が吹いていて、今日は子供が近くで遊んでいます。昨日は、たとえ強い風が吹いていても「フセ」は伏せを要求している事を、今日は、近くで子供が遊んでいても「スワレ」は座る事を要求しているのを犬に教える事が出来ます。毎日の訓練を勧めるのは、反復練習して犬の動作を習慣化したいからでは無く、様々な条件でやりとりを積み重ねる事で、人の要求に対する認識を強化したいからです。毎日接している人は気が付かなくても、犬は一年も訓練を続けるとずいぶん変わります。要求に対する強い認識が出来て人の言う事を良くきくようになりますが、それだけではなくそのやりとりの積み重ねで犬そのものも変わります。悲劇ではありませんが、確実に犬の人格は変わるのです。

 訓練では感情の流れも制御します。例えば休止(きゅうし)の訓練では、ご主人様のそばにいたいという気持ちはやがて満たされます。要求されたように指示された場所でじっとしていても主人の方から帰って来てくれます。気持ちにまかせて行動しなくても、やがてはその気持ちが満たされる事を体験する事で気持ちの制御を覚えます。しかし、それは決して気持ちそのものを無くしてしまうわけではありません。エネルギーの解放をしばらくの時間抑えているだけです。特殊な訓練では、犬に本能のままに出来るだけ攻撃的になる事を要求します。人はより攻撃的になるように、犬をあおり興奮させます。しかしこの極度の興奮状態にあってもやはり「フセ」の合図で伏せる事も要求します。そして犬はその要求に事もなげに答えるようになります。決して力で犬を抑えようとはしません。犬に能力の限りの攻撃性を要求するので、それに少しでも支障を来す恐れのある事は極力控えられます。では、どうやってその興奮状態を制御するかというと、その興奮状態を逆に褒美という形で犬に提供するのです。

 残念ながら、どの犬も同じ知能を持っているわけではありません。賢い犬もいればそうでない犬もいます。しかし、家庭犬として訓練する限り、その差は全く考慮する必要はありません。仮に知能的に劣っていたとしても、多少時間は余計にかかるかも知れませんが、十分な判断力は確実に得られます。人でそうであるように犬もその心の中で、理性と感情とはしばしば対立します。待つ事を要求されていても、飼い主の元に行きたいという気持ち(感情)が、その判断に優る時もあります。たとえ、知能的な優劣があったとしても、訓練によりほとんどの犬に十分な判断力を持たせる事は出来ます、しかしそれとは別に感情は存在するのです。例えば、良くハスキーは馬鹿だと言われます。しかし、簡単な服従訓練では賢いと言われるシェパードやゴールデンよりしばしば早く覚えます。しかし、同時にハスキーはシェパードやゴールデンより感情的なものも強いのです。そして、この感情的なものが強い犬を、犬が慕って来てくれる事を無上の喜びに感じる人が飼うと、待つ事を要求しているのに近寄ってきたハスキーを可愛がってしまい、ハスキーは馬鹿犬になってしまいます。感情的な犬が出来る原因は、しばしば飼い主自身にあるのです。感情の中では主人を慕う気持ちが最も強く、しかもそれは人にとっても快いからです。


 [U人1]非常に面白い事にこういう場合は犬を動物として捉えた方がうまくいく

家庭犬の訓練 2

   ☆☆☆ 犬とは ☆☆☆

   プロとアマチュア

 野球、ゴルフ、カーレース、、、一般的にアマチュアがプロに勝つ事は容易ではないようです。しかし犬の訓練においては、しばしばプロよりアマチュアが犬を良く訓練しています。それどころか競技会では特殊な課目を除いては、なかなかプロがアマチュアに勝てないのが実状です。ところが多くの愛犬家、アマチュア訓練士が、訓練はしてみるのだけど犬が思うように言う事を聞いてくれなくて困っているのも事実です。

 何故でしょう?何故その人々はうまく訓練出来ないのでしょう?訓練の技術的な問題でしょうか?もちろんアマチュアは技術的にはプロには到底及びません。しかし下手だと訓練出来ないのでしょうか?いえいえ、プロよりいい成績を上げているアマチュアの技術は、ほとんど自分の愛犬にだけしか通用しないもので、それはもうお粗末です。どうやら、うまい下手とは別の所に犬の訓練を左右する何かがあるようですね。

 山があります。そこに向かっている限りはやく歩く人も遅い人もやがてはその山に到着出来るでしょう。しかし、いくら一生懸命人よりはやく歩いても、違う方向に向かっていたのでは何時までたっても着く事は出来ません。やっているのだけど犬が出来てこない、あるいは何もなければ良く言う事を聞くが、何かあるとさっぱり聞いてくれないという訓練は進むべき方向を間違えています。先ず正しい方向を知る事です。訓練はそこから始まります。それさえ知れば、たとえ亀のようにゆっくりでもやがてはプロを追い越す事が出来ます。アマチュアには時間はあります。

 さて時間の他にもアマチュアにはプロより優位な事があります。それは犬との信頼関係の強さです。犬と人との信頼関係、これは犬を訓練する上で、いや、犬と人とのかかわり合いにおいて非常に重要なものであり、その根底にあるものだと私は考えています。その大切な信頼関係は、子供の頃から育てられ家族同様に(家族以上に)可愛がってくれた人との間に一番強く作られ、いくら熟練した技術を持ってしてもそれに打ち勝つ事は出来ません。更にもう一つ、アマチュアはプロよりも勝るものを持つ事も出来ます。それは情熱です。訓練において情熱は、熟練したプロの技術をもってしても、とても出来ないような名犬をしばしばつくり上げています。

   犬の本質

 では訓練において進むべき正しい方向とはどこなのでしょうか?それは本来どうあるべきかという事です。例えば車、車を床の間に飾っておこうと海に浮かべようとそれは持っている人の勝手です。しかし、車は本来乗るものであり、乗ってこそ正しい使い方だというべきでしょう。犬も一緒です。犬の本来あるべき姿があります。犬をライオンのように飼おうと、ぬいぐるみのようにしようと、猫のように可愛がろうとそれは飼い主の勝手です。しかし、犬は犬として飼うべきであり、それが正しい方向だと私は思います。

 物事には色々なアプローチがあります。犬は動物だから動物の行動についての法則が適用出来るというのもありますし、また、犬は集団生活をする動物だからその集団生活の中の社会的なルールをもってコントロールをすると良いというのもあります。しかし、同じ動物であっても熊やライオンとは確実に違うところがありますし、また同じように集団生活をする馬や牛とも違うところが犬にはあります。犬には犬たるべきところがあるのです。その犬の犬たるべきところ(犬の本質)が訓練、そして犬を取り扱う上で非常に重要な意味を持つようです。

 では、犬の犬たるべきところとは何でしょうか?逆に言うと、何故犬でなければならないのか?ペットとして犬を選んだ人への問いですが、何故豚ではダメなのか、羊ではダメなのか、猫ではダメなのか、ヘビやカエルではダメなのか、何故犬でなければならないのか?その答えこそが犬の犬としての本質になります。答えは、豚や羊や猫やヘビやカエルに無いものが犬にはあるからです。それは人とやりとりが出来るという事です。これこそ犬の本質です。

   犬を犬として

 最近、動物行動学の立場から犬の問題行動ですとか、犬と人との上下関係ですとか、群の中の順位付けですとかが良くいわれるようになりました。また、日本有数のペットクラブの会報の中にさえ、犬のコントロールに条件付けという方法が当然のごとく紹介されています。もちろん犬は動物です、それは人が動物であるのと同じぐらい確かな事です。そして犬を動物として扱うそれらの方法について、私は決して効果が無いとは考えていません。おそらく人間に対して有効なほどの効果はあるだろうと考えていますし、犬の持つ動物的側面に対しては顕著な効果を示すだろうと考えています。しかし同時に、もし犬を他の動物に対するのと同じ方法でしかコントロール出来ないとしたら、既にそれは飼い方を間違えているとも考えています。犬を犬として飼うだけで犬は十分にコントロール出来るからです。そして、犬を犬として飼えなかった事から、しばしば悲劇が引き起こされているからです。

 望ましくない行動には不快感を与え条件反射的にその行動を抑える。また、して欲しい事には快楽を与える。快楽を求め不快な事は忌避する、犬は只それだけの存在なのでしょうか?犬の行動は単なる反射や反応、習性や習慣によってのみ成り立っているのでしょうか? デカルトは犬を機械仕掛けの人形のように考え、犬には意識が無いとしそれが当時から近代までの科学者の定説だったようです。犬を可愛がる事は人形を可愛がる事と同じなのでしょうか?犬の喜び、悲しみ、おびえ、怒り、それはキツネや牛や馬、あるいはカエルやヘビと同じように物事に対する只の反応なのでしょうか?人に訴え働きかけようとする心は、そこにいささかなりとも無いというのでしょうか?いやそうではないと私は思います。多くの愛犬家と同じように、私は犬から私に向かって発せられた呼びかけを確実に感じています。そこに人に対して感じるのと同じように犬の心を感じています。そして犬は友達という事に全く何の疑問も持っていません。このテキストはその犬と人とのやりとりをとおして、犬に人の要求を伝える方法を紹介しています。うるさいから声帯を取る、咬むから牙を抜く、おとなしくさせる為玉を抜く、、、これらはすべて他の方法、犬を犬として扱う事で解決します。犬に人の要求を伝えるだけで解決出来るのです。

   訓練とは何か

 室内で犬と一緒に生活されている方は実感としておわかりでしょうが、犬は様々な信号を出します。オシッコがしたい、餌が欲しい、嬉しい、恐い、もっとなでて欲しい、、、しかも、それは人に訴え掛けるものなのです。単なる自己の表現ではなくある特定の存在、そう貴方へ向かって発せられた呼びかけなのです。同時に人もそれを無視したり、答えたり、あるいは犬に要求したり、犬の心に働きかける事が出来ます。そして目の動き一つで相手に意思を伝える事さえ出来るようになります。これは確実に心と心のふれあいです。これが犬とのやりとりですが、訓練も同じです。人が犬に何かを要求します。その要求に犬が答えます。その答えに更に人が答えを返します。やりとりを重ねる事によって作り上げられていく相手の要求への理解、そして相手への思いやり。やりとりを重ねる事で心はより強くより深くふれあうようになります。

 犬を訓練するという事はどういう事でしょうか?犬を人間の忠実なしもべにする事でしょうか?人の命令に文句も言わず従うロボットにする事でしょうか?残念ながら違います。確かに良く訓練された犬はまるでロボットのように主人の指示に従い、その様は忠実なしもべが人に仕えているようです。しかし犬は、やりとりを通して人の要求を理解し、それに答えているに過ぎません。訓練はやりとりを通して人の要求を伝え、犬から望む答えを引き出します。やりとりを重ねる事によって、要求されている事は何なのかの認識を犬に作るのです。更にやりとりを重ねる事によってこの認識を強くし、犬はその認識に従って行動します。いくら反復練習をしても、条件反射的な反応の形成をはかったり、無意識的な習慣や行動を犬に求めているわけではありません。あくまでも要求に対する認識の形成を求めています。そしてそれをはずすと訓練は難しいものになってしまいます。では、訓練においてやりとりは、どのようになされるのでしょうか?

 飼い主にとって犬が自分の働きかけに答えてくれる事は感動です。ところが犬にとっても、自分の表現や行動が人に影響を与えるという事は感動なのです。そして驚くべき事に人は、まるで心の中が分かるかのように実に的確に答えてくれます。もう少し散歩していたいと思ったら、不満そうな目で見つめるだけで散歩の時間をのばしてくれます。ドックフードにうんざりしたような顔を見せれば、すぐおいしいカンズメや肉を混ぜてくれます。犬小屋で一人さびしく寝るのがイヤなら、じっと見つめるだけでご主人様と一緒に柔らかなベットで寝る事が出来ます。どうやら、やりとりを通して訓練されるのは犬だけでは無いようです。このさまは、まるで人が犬に忠実に服従しているようですが、人は単に答えを返しているに過ぎません。そこに犬に対する一切の服従心も恐らく持ち合わせてはいないでしょう。どんなに相手の要求に従っても、必ずしもそこに相手への服従心が必要とは限らないようです。

 相手が今何を望んでいるか、どんな気持ちなのか、それを知ろうとする試み、相手を思いやる気持ちが、やがて相手の要求を満たす形になっていきます。問題はどちらが相手を理解しようとするがわにまわるかです。人が犬の気持ちに答えようとすればするほど、犬にとっては良い飼い主になるでしょう。そして犬が人の要求を理解しようとしだしたら、それは名犬への第一歩です。

   訓練と芸当

 熊牧場の熊は観光客の投げるビスケット目当てにボリショイサーカス以上の芸当をひろうします。それはとても教えようと思って出来る事ではありません。何かをすればご褒美がもらえる、ご褒美目当てに動いています。褒美がすべてです。犬も一緒でしょうか?犬も動物、熊も動物です。同じ動物なら熊でそうであったように犬にとっても褒美がすべてでしょうか?私は否と答えます。犬と熊とは違います。犬にとっては褒美よりももっと大切な事があります。

 子犬を可愛がります。可愛がって可愛がって育てます。子犬にとって貴方が誰よりも好きな人、どこよりも行きたいところになります。餌を使ってもかまいません。ボールの好きな犬はボールで一緒に遊びます。他に脇目をふらないように、興味を引きそうな物には近づけません。一番行きたいところ、魅力的なところになり呼んだらすぐ来ます。そうやって育てます。一方、別の育て方をします。やはり可愛がります。しかし子犬に色々な機会を与えます。様々な物に興味を示すように育てます。ヨソの犬がとても興味深かったり、犬と遊ぶのが好きになって貴方が呼んでもなかなか来てくれません。これを訓練します。ヤードをつけて強制します。犬はどんなに好きなところにいても「コイ」の命令で来るようになります。この二例、同じように呼んだら来ます。しかし、内容は大きく異なります。一方の犬は行きたいところに行ったのです。もう一方の犬は行きたいところがあっても来たのです。要するに前者は犬がしたいようにしただけなのです。もっとしたい事があれば当然それをするでしょう。熊牧場の熊と同じです。犬も同じでしょうか?犬も単にしたい事をするだけなのでしょうか?いや、もう一方の犬は他に行きたいところがあっても貴方の元にやってきました。やりたい事をするだけでなく、犬にはもう一つその行動を左右する別の何かがあるようです。[U人1] 

   犬を叱る

 犬が何の理由なく突然人を咬むのは恐ろしい事ですが、犬にとっても人が何の理由もなく怒り出すのは恐ろしい事なのです。もちろん人は理由があって叱っているのでしょうが、それを犬に伝える事が出来なかったら叱る事は単なる暴力になってしまい、ご主人様は恐怖の対象になってしまいます。犬が理解出来るかどうか、犬に人の意図を伝える事が出来るかどうかが、叱る事と暴力とを分ける重要なポイントなのです。

 叱ると犬との関係がまずくなる、あるいは叩くと犬に嫌われると考えている愛犬家が多いようです。また、叩かないでシツケる方法も数多く紹介されています。叩かないでシツケる事が出来れば、それに越した事は無いと私も思います。また、叩いたり叱ってばかりいても犬が言う事を聞くようになるわけでもありません。しかしだからといって、叱る事を否定するのは間違っています。犬と人との信頼関係は、犬を叱ったり叩いたりしただけで崩れてしまうようなもろいものではありません。もし一度叱ったり叩いただけで逃げて行ってしまうようなら(そんな犬はいないと思いますが)それはもう犬ではありません。本来犬は、叱られたり強制されたりする事の中から人の意図を理解しようとします。犬は人を友達と考えているからです。人がそうするからには何かそこに訳があるのだと考えるのです。それが犬と人との信頼関係であり、それが出来るからこそ犬なのです。叱れる事、あるいは強制出来る事はある意味では犬への信頼の一つの現れです。

   手加減

 犬の取り扱い方に不慣れな人にとってはどれぐらい叱ったら良いのか、その手加減が難しいようです。叱る事は少なくても否定の意味にはなるべきです。もっと叱られていたい、あるいはもう一度叱られたいと犬が願う様ならそれは叱る事にはなっていません。例えば、家の犬は叱っても止めない、という事を良く聞きます。恐らくそのほとんどの場合犬は、叱られたとは受け取っていません。例えば、散歩の途中ヨソの犬に吠えつきます。これを否定やめさせたいので叱ります。「ダメよ」って言葉で呼びかけます。犬が吠えなくなればそれで十分です。しかし、意に介さず吠え続けるならこの呼びかけは叱った事にはなっていません。それは叱るつもりで手で犬のお尻を叩いても、綱で力一杯叩いても一緒です。叱った事になるのは犬が吠えつくのをやめた場合だけです。逆に言えば吠えつくのをやめるまでが叱る一つの目安です。

 極端な場合、二度とその過ちを犯そうと思わないほど犬を叱る事もあります。例えば人を咬んだとか、たびたびあっては困るような事を犬がしでかした場合です。そして、その結果犬にダメージを与えたとします。貴方を見る目が卑屈になるかも知れません。貴方を恐がるようになるかも知れません。しかし、それでも構わないと私は思います。してはならない事を犬に理解させる事が先です。犬と貴方の関係はその後で必ず修復出来ます。それ以降の犬と貴方が接している時間のすべてに、壊れた関係を修復する機会を持つ事が出来るからです。長い目で見る事です。小さい頃厳しくシツケて大人になったら優しくすれば良いのです。逆に自由気ままに育てて大人になってから、さあ言う事を聞けというのは無理です。

 慎まなければならないのは叱る回数が増える事です。それは叱る事が効果を上げてない状況を如実に物語っています。叱る事になっていないか、あるいは何を叱られているのか犬が理解出来ないのです。特に、悪い事(人が望まない事)をしでかしてから犬を追いかけ回す状況は、何時悪い事をしでかすのか度重なる経験を思い浮かべて犬の行動を予測したり、もう一つ上の次元から意図的に犬が悪い事をしでかすように状況をセットすれば解決できるはずです。後手に回らない事です。強く叱る事は悪い事ではありませんが、回数を叱ったり長く叱る事は既に叱る事にもなっていません。

 くどいようですが、叱り方の間違いが犬にダメージを与え、ひいてはそれが重要な犬への一つの働きかけを否定することにつながるので、もう一度云います。1の力で10回叩くなら、10の力で1回叩くべきです。叱ることが効果をあげれば、叱ることはダメージを犬に残しません(→ダメージ)。叱ることが効果をあげないなら、それは何かが間違っていると考えるべきです。

   力による支配

 もう一つ誤解しやすい事ですが、叱る事は上下関係を作る事ではありません。更に訓練は人と犬との上下関係をはっきりさせる事でもありません。訓練では犬に服従を求めます。しかし、その服従は上下や力での服従ではありません。先に述べたようにやりとりを通して、人に要求されてるのは何なのかという認識の上になり立つ服従です。従って犬に求めるのは服従心ではなく賢さ(判断力)です。その賢さが人の要求を理解してそれに答える:命令に従っているという形で人の目には映ります。もし、人と犬との間に著しい上下関係が生じたなら、それは訓練においてはマイナスにしかなりません。どちらがどちらに対してであっても、上下関係や力による支配という状況は速やかに解消されるべきであり、回避されるべきです。訓練では犬が自分だけの力で状況を判断する事を非常に強く求めます。与えられた機会に人の顔色をうかがったり、あるいは人に依存しなければ行動出来ない(答えを返す事が出来ない)ようでは困るのです。その判断力を養う為に教えるというよりは、犬自身が学習するという形で訓練は進められるべきです。

 例えば、伏せて待っている訓練があります。犬は人が帰って来るまで同じ場所で伏せたまま待っていなければなりません。この時、常に人が犬の側にいて犬が動き回らないように「動くなよ」「動いたら叩くよ」「じっとしてるんだよ」と働きかける事。例えば脚側行進(きゃくそくこうしん)の訓練があります、犬は人の横について一緒に歩かなければなりません。この時常に「ここよ、ここにいるのよ」「ヨソに行ったらダメよ、叩くよー」と言いながら歩いたり、あるいは犬や猫が出てきた時「行っちゃダメよー」「ダメよ、ダメよ」等と常に犬に働きかける事。この二例はいずれも犬が自分で判断する事に干渉しています。これでは何時まで経っても犬に判断が形成されません。また、犬自身が自分で物事を判断するチャンスを奪っています。犬自身の独立に問題を生じます。飼い主には、かわいい我が子に痛い目をさせたくないという気持ちがあります。それによってこのような取り扱いになりがちですが、本当は犬に失敗させ学習させるべきです。学習によって犬が得るものと、人に依存せず犬自身が学習したという経験を作る事です。犬が、もし叱られる事におびえながら行動しているとすればこれと同じ状態です。 

 アブナイ!車がきます。車が危ない事を知らない犬は平気で車に向かいます。一生懸命人は犬を抑えます。ところが訓練では犬を抑えません、行かせます。行かせて車と衝突させます。犬は懲りて二度と車に向かわなくなります、学習です。もちろん、実際にぶつけては大変なので替わりを用意しますが、犬自身の判断を作るというのはこういう事です。

   犬の命

 訓練や、犬と人とのやりとりは犬の判断力の上に成り立っています。もともと犬は人とやりとりをするにたるだけの判断力はほとんどが持っています。この判断力は、人との生活の中で様々な体験をし、色々な事を学習して発達します。しかし、犬を飼う人の中には、犬自身が学習する事を快く思わない人がいます。犬を可愛がり、何から何まで犬の面倒を見ます。どんな時でも犬は自分の庇護の下にあるべきだと考えています。犬をとりまくすべての状況は自分が完全に把握管理し、それが精神的であろうと肉体的であろうとダメージを及ぼすあらゆる可能性から犬を隔離します。世の中で犬の事を一番考えているのは自分だと思いこんでいます。自分の庇護の故に、犬がいかにストレスを受ける事無く成長したか、そしていかに何不自由無く生活しているかを自慢します。もちろん、犬の命は自分が預かっていると考え、それが本来犬のものである事には全く考えが及びません。犬に自立した心が出来るあらゆるチャンスを奪っておいて、犬は何時までも子供であり、自分で自分の面倒を見る事が出来ない子供は誰かが庇護すべきであり、その誰かは当然自分であると考えています。その人達にとって犬は、もちろん家族の一員です。そして常に子供です。訓練のやり方や取り扱いの不手際を一切考慮せず、家の子は訓練しても良くならないとか訓練には不向きとしています。あるいは逆に訓練は犬に必要ないとか、犬には良くないとか言いだしたりもします。 

 金を出して買った命でも、あるいはその生活のすべてを人が面倒見ていても、犬の命は犬のものだと私は思います。犬も一個の個性(存在)であり、それを尊重してやって欲しいと私は願います。機会を作り犬に数々の経験をさせ、犬自身が学習しその存在を高めるチャンスは与えるべきだと思います。

   犬のしあわせ

 朝昼晩、食事をしていたのに、朝と晩しか食事が無くなったら少し不幸になったと思うでしょう。でも、晩だけしか食事が与えられなかったのに朝も食べれることになったら喜びます。同じ事でも、その境遇によって受け取り方は全く違ってきます。1週間に一日だけ散歩に連れていってもらえる犬は、1週間に一回は確実に幸福な日があります。1週間に一日だけ散歩の無い日のある犬は、1週間に一日は確実に不幸です。一体どちらの犬の1週間が幸福でしょうか? 「境遇」があります。はたから見たら不幸にみえてもその境遇にあるものにとっては別になんでもないと思っていて、その不幸を意識すらしないでしょう。私は、何もかもが満たされていなくてもそれなりに幸福だと思います。あるいはひょっとしたら、1週間に一回しか散歩に連れていってもらえない犬の方が1週間に1回は幸福がある故に、1週間に1回不幸が訪れる(散歩のない日のある)犬より幸福かも知れないとさえ思います。

 ビーグルのマイケルは、若い女性がマンションで飼っていました。昼間勤めで出ていてマイケルを構ってやれない分、帰ってきてから相手をします。また、構ってやれないというマイケルに対する引け目から、マイケルの少々のワガママを、私も悪いのだからと容認しました。マイケルは毎日、出勤のたびに「行くな」と吠え続け、それでもおいて行くと部屋の中を大荒れにしました。で、帰ってきた飼い主はまた、一人にさせたせいだと可愛がります。

 ピレのパルは、おじいさんと息子が可愛がっていて、大変フレンドリーで、訓練でも非常に素直で非常に良くいうことを聞き、問題を起こすような犬にはみえませんでした。外の犬小屋で飼っていたのですが、気が向いたときに何回か部屋の中に入れて可愛がりました。パルはフレンドリーですから、人に吠えついたりはしないのですが、

近所から騒音の苦情が来ました。鳴くんです。人恋しさに、クンクン鼻を鳴らすのです。この苦情で奥さんはノイローゼになり入院しました。部屋では飼えない事情(確か子供にアレルギーが出た)があって、最後手放しました。

 ハスキーのゴンの飼い主は一月に数日しか家に帰りません。たまに帰ったときには、いないときの分までもと思いきり可愛がります。いないときは、高齢の両親が面倒を見ていますが、父は立つのがやっと、母は歩くのがやっとで、可愛いゴンのためには

大好きな煮干しを餌に混ぜてやるのが精いっぱいで、散歩どころではありません。訓練して女の子でも散歩できるようになりましたが、ゴンが家族の顔を見るとそのすべては水の泡です。父、母は散歩できませんし、飼い主はそうする(脚側につけて歩く)気がありません。

 犬を愛する誰もが、犬の幸福を願います。犬の気持ちのすべてを満たしてやりたいと願います。犬が満たされない気持ちでいるのを哀れみます。可哀想に思います。そして別の何かで埋め合わせをしようとします。それが、マイケルやパルやゴンにどういう影響を与えたかは明らかです。

 例えば、子供が転んだとき抱き起こすばかりが親の愛情ではないと思います。子供が自分で起きあがるのを黙ってみているのも愛情ではないでしょうか。例えば、子供が望むからといって何も買い与えるでしょうか?そんなことはしないでしょう。しかし、犬では愛情の名のもとに結構それが行われています。それが犬にどのような影響を与えるかは人間の子の場合と同じです。そして可哀想なの名のもとに、犬を甘やかします。一人にさせといて可愛そう。十分な散歩をさせてやれなくて可愛そう。同じものばかり食べていて可愛そう。しかし、残念ながらというか、好都合なことにというか犬は自分がおかれている境遇がどれだけ恵まれているのか、どれだけ不幸なのか分かりません。それが分かる人間の子供にさえ、その要求のすべてを満たそうとはしません。しかし、境遇さえ分からない犬には可哀想だと接するのです。境遇そのものは犬悪影響は与えませんが、可哀想だと接することは犬に非常に大きな影響を与えます。

 ビーグルのサンデーのオーナーは、可愛い女の子です。小学生ぐらい。しかし、背中が大きく湾曲し、手も足も不自由で歩くことさえままなりません。不覚にもはじめは対応に戸惑いました。しかし、ご両親が普通に接しているので私も普通に接っすることができました。感情的なものがあったとしても、その生の気持ちで相手に接することは、決して相手のためにはならないようです。どうしてこれが犬に対しては出来ないのでしょうか?

 

   名犬の条件

 犬は飼い主に似ると良く言われます。文字どおり似るわけではありませんが、犬は容器に入れられた液体のように、容器即ち飼い主に合わせて形を変えます。面白い事にほとんどの飼い主は、今ある姿がその犬本来の姿だと思いこんでいます。家の犬は良く吠える、家の犬はヨソの犬を追いかける、家の犬は落ちつきが無い、家の犬は良く言う事を聞くが散歩の時に引っ張る、家の犬は待つ事が出来ない、家の犬は呼んでも来ない、、、あたかもその犬の生まれついての特質のように言われる、これらのほとんどは飼い方です。飼い主がそうしたのです。もちろんその意図は無かったのでしょうが、そうなるようにシツケたか、あるいは逆にそうならないシツケを怠った結果です。例えば、的確に犬を扱えないハスキーの飼い主が三人集まれば、ハスキーはソリを引く犬なので散歩の時人を引っ張るのは当たり前であり、呼びの効かない習性もあるとして、あたかもそれをハスキーという犬種独自の特徴にまでしてしまいます。

 何頭犬を飼育しても、そのどの犬もお客さんが帰るまで指示された場所でじっとさせている人もいます。どの犬を車に乗せても、確かめないといるのが分からないほど大人しくしています。あの騒々しいシェルティを、何頭も飼っていても静かにさせている人もいます。訓練されて脚側(きゃくそく)について喜んで歩くハスキーはいくらでもいますし、特別訓練を受けていなくても呼んだらすぐ来るハスキーも沢山います。

 あるいはこれらにはシツケとまではいかない犬との接し方、飼い方の問題が含まれているのかも知れません。だからそれらの原因が自分にある事に気づかず、家の犬は、、、という話になるのでしょうか。例えば、散歩の途中ヨソの犬に吠え付いてるのを、綱を短く持ってダメヨダメと耳元で話しかけます。人は犬のやってる事を否定しているつもりでしょうが、反対にけしかけているようなものです。吠えるよう訓練しているのと同じです。

   犬との関係

 順位付けがいわれるようになり、それを真に受けた愛犬家が犬より優位を得ようと、いくつかの悲劇が起こりました。いじめられた犬だけでなく、理不尽な行為に逆上した犬からの反撃もその悲劇に一層拍車をかけました。一体どういう理由から、人と犬との間にある関係を無視して、犬社会のルールを人と犬との間に持ち込もうと考えたのか、私には分かりません。確かに人と犬との間に上下関係が出来る場合もあります。しかしそれを逆転しようとして犬社会のルールに従ってしまうよりも、上下の関係そのもの犬社会のルールそのものを無くして、本来の人と犬との関係を修復した方が良いと私は考えます。[U人2] 

 さて、犬はしばしば問題を起こしますが、その問題は犬と人との序列の混乱から起きるのでしょうか?向こうを向いている犬をこちらに向けただけで歯をむき出す、寝ているのを起こしたら咬んでくる、一見下位の存在にその序列を無視された事によって起きたようにみえます。「コントロール」の散歩の項目で、子供が散歩すると犬が勝手気ままに引きずり回すようになる話を紹介しました。行きたい所に抵抗無くついて来てくれるご主人様の存在は、好き勝手な犬をつくり上げます。散歩のみならず、他の事柄も自分の思い通りになると錯覚するのです。好き勝手な犬が出来上がるのは、犬の行動を制御できるだけの力の無い子供がご主人様の場合だけとは限りません。中断するのは犬の楽しみを奪って可哀想と思って、心ゆくまで臭いを嗅ぐ犬にいつまでもつきあう飼い主、気持ちを満たしてやりたいと、あっちへ行きたいこっちへ行きたいという犬のワガママに黙ってついて歩く飼い主もその大きな原因です。

 イヤがるからしない、したがるからやらせる、好き勝手、したい放題を犬に許します。当然犬は、世界は自分中心に回っていると思い込みます。飼い主は自分に従っていると考えます。その飼い主が自分の行動に干渉しようなど噸でもない話です。向きたい方を向かして置いてくれないとか、寝ていたいのに起こされて腹を立てるのは当然です。これは上下ではなく円の関係です。太陽と地球のようにどちらがどちらを中心に回っているかという事です。犬に世界の中心に自分があると勘違いさせるほど、貴方の生活は犬を中心に回っているのではないでしょうか?犬にストレスを与えてはいけない、自分が犬をいかに大切にしているか、自分がいかに犬の事を考えているか、それはもちろん悪い事ではないでしょうし、それが生き甲斐の人もいるでしょう。しかしやはり太陽は、人の方であるべきだと私は思います。

   アマチュアの失敗  

 犬にとって最も良いのは、飼い主自らが訓練することです。犬にとっては最も負担が少なく、飼い主にとっても非常に有益です。しかし、障害もいくつかあります。最も大きな障害は、犬を訓練して生計を立てている人が困ることです。冗談でなくこのテキストで、すべての人が自分で訓練出来るようになってしまったら、私は飯の食い上げです。もう一つの障害は、訓練を失敗することです。訓練できないことは問題ではありません、それで元々です。訓練を失敗するというのは、いかにも犬が言うことを聞いているようにみえて、その実飼い主が訓練されている場合をいいます。そう、良く言う事は聞くのですが、それが全部犬の都合だったり、結果言う事を聞き易いタイミングで犬に命令させられている場合です、これは実にやりにくい。ヨソ見をしているときはどうせ言う事は聞かないと思って命令しません。犬は言う事を聞きたくない時にはヨソ見をするのです。

 命令する時に犬の都合を考慮する必要は全くありませんし、してはいけません。犬がヨソを向いていようと、はしゃぎ回っていようと、犬に要求を伝える事(命令する事)には全く差し支えありません。犬が始めからあらゆる状態で、人の要求に答える事が出来るわけではありません、だから訓練するのです。犬の失敗(犬が答えることが出来ない事)を恐れる必要はありません、失敗はまたとない訓練のチャンスです。タイミングも一切考慮する必要はありません。犬が合図に対して即座に答えるのを要求する必要はありません。合図をしそれを理解して犬は行動するのです。確実な認識がないのに、動作ばかり求めても無意味です。人の要求に対する確実な認識が出来てくれば、動作は自ずとはやくなります。集中力も全く必要ありません。ボールや餌を見せて、犬にこちらに対する注意をあおります、これも無意味です。もし犬の心が飼い主になくて、犬が人の要求に気がつかなかったら、犬の心を飼い主の元に戻すまたとない訓練の機会を得ることが出来ます。良く目に付くように犬の進路をさえぎって手をかざしたり、かがみ込んで命令するのもナンセンスです。命令する際に、興奮している犬を落ちつかせて冷静にさせる必要もありません。とにかく、犬が言うことを聞き易く配慮したり、犬の都合を考慮する必要は一切ありません。

 訓練は芸当ではありません、生活の中で使います。して欲しい時にやって欲しいのです。やって欲しいその瞬間に、いちいちタイミングだとか、集中だとか、精神状態だとか、その他諸々を配慮することなど不可能です。毎日毎日、犬の都合次第の訓練をしていて、いざという時だけ人の都合で言うことを聞いてくれというのは無理です。


 [U人1] 飴とムチを使い分けると良くいわれますが、動物を調教する場合には良く餌とムチが使われます。餌は褒美と同時に食事でもあり、それに生活がかかるため動物は必死です。ムチも主として痛覚を刺激するために使われ、それを回避する動作を調教に利用します。生理や肉体的な反応に近い次元で動物の調教は行われます。要求するのはあくまでも動作(芸当)であり、動作だけです。犬の訓練のように、そこにその動作への認識を求めません。たとえ無意識でも習慣でも習性でもその動作をする事が何よりも優先されます。犬の訓練は逆に、動作にとらわれ過ぎたり、犬と人とのやりとりを外してしまうと難しいものになってしまいます。

 [U人2] 私は小さい頃は親父と一緒に、それ以降は私一人で数々の犬の群をひき連れて、ある時は名古屋のゴルフ場を、ある時は札幌の広大の造成地を、ある時は恵庭の演習場を何年もいや何十年もの間散歩しています。その犬の群は、有象無象の只の集まりだった事もありますし、確実に特定の犬・ボスがその行動の中心にいた事もあります。その際には序列もありました。しかし、それも犬同士の時の話です。そこに私が加われば私が当然ボスになり、群は私を中心に動きます。そして更にその序列に従わない特殊な犬も存在しました。常に私を中心としてどの犬よりも先に動き、私の動きに俊敏に呼応するその犬は、その犬よりいわゆる力では上位の犬達からも一目置かれました。それは良く訓練された、私との間に犬と人との関係を強く結んでいる犬です。

家庭犬の訓練 1

 家庭犬の訓練 

          - 犬の取り扱いと簡単な訓練 -

   ☆☆☆ はじめに ☆☆☆

   犬を飼う

 犬を飼いはじめます。例えばラッシーの様に、例えば刑事犬カールのように賢くなって欲しい、あるいはベンジーのようにしっかりした犬になって欲しい、あるいはそれほどではなくても世間並みのシツケぐらいはと、一つの思い入れを持って飼いはじめます。不安そうにしていたのもはじめの束の間だけで、犬はあたりに慣れ貴方に尾を振りはじめます。うちとけてきたのです。人はうちとけてきた犬の相手をし、可愛がります。犬とのやりとりのはじまりです。はじめからやりとりの上手い人もいます。犬の微妙な目の表情や尾、口から犬の気持ちを読みとることが上手い人です。そういう人たちは、はじめから犬に対して大変フレンドリーです。犬は友達・仲間です。ほとんどの犬はそれを裏切りません。親しく接してくれる人には親しく答えます。こういう人は犬に答えるのも上手いですし、犬に働きかけるのもじょうずです。

 でも、ほとんどの人はそうではありません。犬に働きかけることもできませんし、犬からの働きかけにも気がつきません。しかし、犬を思う気持ちは強く、やがて犬の働きかけに気がつくようになります。今、オシッコをしたがっている、散歩に行きたがっている、撫でられたがっている、、、犬の気持ちが次第に分かってきます。これは素晴らしいことです。自分が気持ちを分かっていることを犬に伝えたくて仕方ありません。常に犬に答えます。犬はますます強く働きかけてきます。それにも答え、気持ちが通じ合えていると確信します。犬は自分の要求がすべて通ると勘違いし、人は自分ほど犬のことが分かる・犬を理解しているものはいないと勘違いしはじめます。この人達は犬からの働きかけには良く答えますが、犬への働きかけには消極的です。犬を子供のようにかわいがり、犬を庇護します。

 犬と友達のように接する人と犬を子供のように扱う人、二つのタイプがあるようです。その愛情に変わりはないと思いますが、取り扱いには微妙に差が出てきます。そしてそれに合わせて犬も変わります。友達と考える人は、もちろん犬を大切にしますが自分を主張するところは自分を主張します。常に犬の言いなりではありません。犬を子供のように考える人は、先ず子供の機嫌をとることを考えます。常に犬の主張を優先します。犬を子供のように考える人は常に犬を庇護します。犬を友達と考える人は、あらゆる状態から犬を庇護しようとは考えません。何かあれば助けようとは考えますが、それまでは犬の自由にさせます。一方で自立した心を持つ犬が出来てゆき、もう一方で人に依存する犬が出来ていきます。犬は人次第です。

   犬をしつける

 犬を飼いはじめます。例えばラッシーの様に、例えば刑事犬カールのようにあるいはそれほどではなくても一通りのシツケぐらいはと、一つの思い入れを持って飼いはじめます。シツケや犬の飼い方の本を買いこみます。悪いことをしたら叱りなさい、良いことをしたら褒めなさいと書いてあります。しかし、犬への働きかけを知らない初心者にそれが出来るでしょうか?犬を叩くことは出来ます、しかし叱ることは出来るでしょうか?犬を撫でることは出来ます、しかし褒めることは出来るでしょうか?褒めること叱ることは犬への働きかけです。この犬への働きかけが正しくできるなら、既にほとんど訓練は必要ないと言えるでしょう(→犬を訓練する)。

 犬を叱ります。ギャン!ある人の場合、犬は叱られてそれに懲りて二度と悪いことをしませんでした。別の人の場合、犬は叱られても平気で悪いことを繰り返します。叱り方が悪いとは考えません。たいていは「家の犬は叱っても平気でいる。」あるいは「家の犬は叱ってもきかない。」となるようです。また、ある人の場合、叱られて犬は一旦悪さをやめました。しかし、しばらくすると再び悪さをしでかします。その繰り返しです。犬は叱って欲しいのです。叱られることが犬には実に刺激的で楽しかったのです。もちろん、この場合も「家の犬は叱っても言うことをきかない」あるいは「家の犬は叱ったらむきになる」ということになります。

 ブレーキの効かない車があるわけではありません。止まらないように手加減してブレーキを踏んでいるのです。あるいは間違えてアクセルを踏んでいるのかも知れません。ブレーキが効くこと、すなわち犬が叱られたと感じること、すなわち一時的にせよ犬が落ち込むことに耐えられないのかもしれません。叱られていても犬がニコニコしていること・喜ぶような叱責はこの世に存在しません。

   犬を訓練する

 犬を飼うとは、どういう事でしょうか?家に忠実なしもべを一頭おくことでしょうか?もちろん、そんなつもりの人はいないでしょう。従って訓練して、犬を自分の言いなりのしもべにしようと考えるのは間違いのようです。人間社会に生きるには、たとえ犬でもルールを知らなければなりません。訓練はその為に犬に教育をつけることです、というのも違うかも知れません。人間社会に生きるといっても、ほとんどの問題は飼い主とのかかわり合いの中で発生し、もう一方の当事者をさしおいて犬に教育をつけるだけでそれは解決しないからです。もう一方の当事者すなわち人の態度が大切です。いや、犬は人の接し方によってどのようにでも変わりますから(→犬を飼う)、人の方が重要というべきかもしれません。訓練をつける、犬をしつける、犬を教育する、ほとんど一方的に問題の原因を犬に押しつけていますが、そろそろ、こういう迷信は捨てても良いのではないでしょうか?

 犬を訓練するとはどういうことでしょうか?黙っていたのでは訓練できません。犬に働きかけなければなりません。犬から望む答えを引き出さなくてはなりません。望む答えが得られたらそれを表現し、犬に答えを受け取ったことを伝えます。すると次から犬は、人の要求に更に良く答えてくれるようになります。こうして犬に人の要求を伝えます。大切なのは、人の要求を犬が知ることだけではありません。飼い主が犬に働きかけること、犬への影響力を持つこと、これが大切です。犬の答えを受け取り、受け取ったことを犬に伝えること、これも重要です。飼い主が犬に働きかけたり答えたりする事、犬を訓練するということは、同時に人にも犬の正しい扱い方をもたらします。

 ほとんどの飼い主は、はじめから犬を叱ることや褒めることは出来ません。しかし、犬につけている綱を引くことは出来ます。犬を撫でることは出来ます。犬を叩くことも出来ます。犬に言葉をかけることもできます。それが犬にどのように作用するのか、それはやってみればすぐわかります。それが犬に悲しみをもたらすのか、喜びをもたらすのかを知る事です。アクセルを踏むこと、ブレーキをかけること、ハンドルを回すこと、それが的確には出来なくても始めてみなくては運転を覚えることは出来ません。エンストを繰り返し、脱輪を繰り返し、急ブレーキ等の失敗を繰り返して、そう、たまにブレーキとアクセルを踏み間違えて加減を覚え、運転は出来るようになっていきます。

 我々プロでも、出会った様々な犬に対して常に最適な働きかけが出来るわけではありません。例えば叱るのが強すぎて犬が落ち込みすぎるようなら弱めますし、褒めても犬が明るい気分にならなければ褒め方を変えます。やって加減を知ります。犬の状態を常にフィードバックさせ、自分の態度や動きを変化させて犬を望む精神状態に持っていきます。ヨソの犬に吠えついて興奮しているときに、いつものように犬を叱ります。しかし、例えば犬の尾が背中より上にあるようなら、叱ったことにはなっていないと見ます。3回叩けばよいとか5秒撫でればよいとか、叱ることや褒めることを量では決めるわけにはいきません。犬がそう受け取らなかったら、叱ることにも褒めることにもならないのです。決められたコースに車を導くことと同じです。その時のスピード、路面、車の性能などによってハンドルの切り角やアクセル・ブレーキの加減は異なります。重要なのは、ハンドルの切り角や、アクセル・ブレーキの程度ではなく車がコースにあることです。